第四十五話 母親失格
人は時々、“愛しているのに苦しい”という矛盾の中で壊れていく。
「最低じゃないと思います」
レンの言葉に。
佐伯真奈は、しばらく何も言えなかった。
ただ。
目から涙だけが静かに零れていく。
腕の中では、小さな子供が静かに眠っていた。
レンはその寝顔を見る。
まだ幼い。
二歳か、三歳くらいだろうか。
柔らかそうな髪。
小さな手。
その姿は、どう見ても“守られる側”だった。
でも。
真奈の顔は、限界だった。
アカネが静かに珈琲を置く。
湯気がゆっくり揺れる。
真奈は掠れた声で言った。
「私、ちゃんと母親になろうとしてたんです」
レンは黙って聞く。
真奈は続けた。
「妊娠した時、すごく嬉しかった」
少しだけ笑う。
でも。
その笑顔はすぐ崩れた。
「でも、生まれてから」
唇が震える。
「毎日怖くなったんです」
静かな店内。
雨の音だけが遠くで聞こえる。
「泣き止まないと、自分まで壊れそうになる」
「寝れない」
「休めない」
「ずっと誰かの“母親”でいなきゃいけない」
真奈は俯く。
「なのに」
声が、少し掠れる。
「SNS見ると、みんな幸せそうで」
「ちゃんと育児してて」
「笑ってて」
「なんで私だけ、こんな苦しいんだろうって」
レンは胸が痛くなった。
真奈は続ける。
「この子が悪いわけじゃないんです」
眠る子供の頭を、優しく撫でる。
その手は、ちゃんと母親だった。
「でも」
真奈の目から涙が落ちる。
「時々、“いなかったら楽なのに”って思ってしまう自分がいる」
レンは息を呑む。
真奈はすぐに首を横に振った。
「違うんです」
「死んでほしいとかじゃないんです」
「ただ」
声が壊れる。
「苦しいんです」
アカネは静かに聞いていた。
否定もしない。
慰めもしない。
ただ。
真奈の言葉を、そのまま受け止めていた。
その時。
子供が小さく目を覚ました。
眠そうに真奈を見る。
そして。
小さな手で、真奈の服を掴んだ。
「……まま」
その瞬間。
真奈の顔が崩れた。
涙が止まらなくなる。
「ごめんね……っ」
子供を強く抱きしめる。
「ごめんね、ごめんね……」
子供は何もわからないまま、真奈へ抱きついている。
レンは胸が締めつけられた。
愛している。
でも苦しい。
離れたい。
でも離れられない。
その感情は。
形は違っても、昔の自分と少し似ていた。
その時。
アカネが静かに聞く。
「真奈さん」
真奈は涙を拭いながら顔を上げる。
アカネは静かに言った。
「あなた、本当に消したいのは“子供への愛情”ですか?」
真奈の呼吸が止まる。
読んでいただきありがとうございます!
今回は“母親の限界”に踏み込む回でした。
次回、真奈が本当に消したかった感情が見えてきます!




