第四十四話 消したい母親
人は、“失ったあと”にしか理解できない感情を抱えながら、生きていく。
月見坂は、今日も静かだった。
透明都市の夜。
雨上がりの路地に、ネオンの光が滲んでいる。
レンは黒い店の前で立ち止まった。
【記憶・感情・後悔 査定いたします】
以前は、この看板を見るだけで胸がざわついた。
でも今は。
少しだけ違う。
痛みが消えたわけじゃない。
ただ。
“抱えたまま歩く感覚”を、少し覚え始めていた。
レンは静かに扉を開ける。
鈴の音。
店内には、薄い珈琲の香りが漂っていた。
藤堂アカネは、いつものようにカウンターに座っている。
「こんばんは」
レンが言うと、アカネは少しだけ目を細めた。
「顔、前よりマシになった」
「失礼だな」
アカネが小さく笑う。
その時だった。
店の奥から、小さな泣き声が聞こえた。
レンは眉をひそめる。
アカネは静かに立ち上がった。
「今日はお客さんがいるの」
レンは奥を見る。
ソファに、一人の女性が座っていた。
三十代後半くらい。
髪は乱れている。
目の下には濃い隈。
そして。
その腕には、小さな子供が眠っていた。
女は、壊れそうな顔をしていた。
アカネが静かに紹介する。
「依頼人の、佐伯真奈さん」
女性はゆっくり頭を下げた。
レンも軽く会釈する。
その時。
真奈がぽつりと呟いた。
「……消したいんです」
掠れた声だった。
レンは黙って聞く。
真奈は、眠る子供を見下ろす。
その目には、深い疲労が滲んでいた。
「母親なのに」
唇が震える。
「この子を見てると、苦しくなる時があるんです」
レンは息を呑む。
真奈は続けた。
「ちゃんと愛してるんです」
「大事なんです」
「でも」
声が壊れそうになる。
「消えたくなるんです」
店内が静まり返る。
レンは何も言えなかった。
真奈の目は、本当に限界の人間の目だった。
アカネが静かに聞く。
「何を売りたいんですか?」
真奈は少しだけ黙ったあと、言った。
「母親になってからの感情を、全部」
レンの胸がざわつく。
全部。
その言葉が、昔の自分と重なる。
耐えきれなくなって。
“感情ごと消したい”と思ってしまう夜。
真奈は泣きながら笑った。
「最低ですよね」
その時。
レンは気づけば、口を開いていた。
「……最低じゃないと思います」
真奈が顔を上げる。
レンは少し迷いながら続けた。
「多分、壊れそうなんですよね」
真奈の目から、涙が零れ落ちた。
アカネはそんな二人を、静かに見つめていた。
読んでいただきありがとうございます!
レンの中で、“喪失”が少しだけ形を変え始めました。
次回、新しい依頼人が月見坂へ現れます!




