第四十一話 もし、あの時
人は、“もし違う自分だったら”という未来を、一度は想像してしまう。
「これでレン、楽になれるのかなって思ったから」
美月の声は、とても静かだった。
レンは何も言えなかった。
その優しさが。
昔からずっと、自分を救っていた気がした。
でも同時に。
その優しさに甘えて、壊れていった気もした。
バー《海月》には、穏やかな音楽が流れている。
窓の外では、小雨が降り始めていた。
レンはグラスへ視線を落とす。
透明な氷。
まるで、自分たちみたいだった。
綺麗で。
でも、触れれば静かに溶けていく。
その時。
美月がぽつりと聞いた。
「ねえ」
レンは顔を上げる。
美月は少しだけ笑った。
「もし、あの時」
少し間が空く。
「レンがもう少し、自分を好きだったら」
胸が静かに痛む。
美月は続ける。
「私たち、続いてたと思う?」
レンは答えられなかった。
“もしも”。
その言葉は残酷だった。
考えてしまうから。
別の未来を。
失わなかった可能性を。
レンは静かに息を吐く。
そして。
正直に言った。
「……わかんない」
美月は少し笑う。
「だよね」
レンは続ける。
「でも」
喉が少し詰まる。
「もっとちゃんと、美月を愛せてた気はする」
美月の目が、少しだけ揺れた。
レンは静かに言葉を探す。
「俺、多分」
「愛されることで、自分を保ってた」
昔の自分を思い出す。
不安だった。
仕事も。
将来も。
自分自身も。
何も信じられなかった。
だから。
美月だけを掴んでいた。
離れないように。
自分が壊れないように。
レンは苦笑する。
「そりゃ疲れるよな」
美月は小さく首を横に振った。
「でも、幸せだったよ」
レンは顔を上げる。
美月は静かに笑う。
「苦しかったけど」
「ちゃんと幸せだった」
その言葉だけで。
胸がいっぱいになる。
終わった恋なのに。
もう戻れないのに。
どうしてこんなに愛しい。
その時。
美月のスマートフォンが震えた。
画面が光る。
夫からの着信。
レンの胸が、静かに冷える。
現実だった。
美月は少しだけ申し訳なさそうに笑う。
「……ごめん」
レンは首を横に振る。
「出なよ」
美月は少し迷ってから、通話へ出た。
『うん、今外』
『もう帰るよ』
優しい声だった。
ちゃんと“妻”の声だった。
レンは視線を落とす。
胸が痛い。
でも。
怒りはなかった。
ただ。
“もう自分の場所じゃない”ことだけが、静かに苦しかった。
通話が終わる。
美月はスマートフォンを置き、少し寂しそうに笑った。
「帰らなきゃ」
その言葉が。
終わりみたいに聞こえた。
読んでいただきありがとうございます!
今回は“もしも”と“現実”が交差する回でした。
次回、二人は再び別れを迎えます!




