第三十三話 空っぽの幸福
人は、“正しい人生”を選んでも、昔の恋の温度を忘れられないことがある。
『今、幸せ?』
美月の言葉が、静かに胸へ沈んでいく。
レンは答えられなかった。
幸せ。
その感覚が、よくわからない。
仕事はある。
生活も普通だ。
部屋もある。
飯も食える。
でも。
胸の奥だけが、ずっと空っぽだった。
レンは窓の外を見る。
透明都市の夜景。
綺麗だった。
なのに。
何も感じない。
いや。
“感じなくなっていた”のかもしれない。
「……わかんない」
レンは正直に答えた。
通話の向こうで、美月が小さく息を吐く。
『そっか』
責める声じゃなかった。
でも。
少しだけ寂しそうだった。
レンは低く聞く。
「美月は」
自分でその名前を口にした瞬間、胸が痛む。
でも今は、もう言えた。
忘れていなかったみたいに。
「……幸せなのか」
通話の向こうで、沈黙が落ちる。
長かった。
レンは、その沈黙だけで苦しくなる。
やがて。
美月は小さく笑った。
『難しい質問するね』
レンは何も言わない。
美月は続ける。
『安定してるよ』
その言葉が、妙にリアルだった。
幸せ、じゃない。
安定。
レンの胸が少しだけ痛む。
『ちゃんとした家に住んで』
『ちゃんとした人と結婚して』
『将来の不安もそんなにない』
美月は静かに言う。
『昔より、ずっと“正しい人生”』
レンは目を閉じた。
昔の自分には、与えられなかったもの。
だからこそ。
責められなかった。
その時。
美月がぽつりと呟く。
『でもね』
レンの呼吸が少し止まる。
『時々、すごく静かなの』
窓の外で、風が鳴る。
『レンといた頃って』
美月は小さく笑った。
『めちゃくちゃだったじゃん』
レンの頭に、断片が流れ込む。
終電。
二人でコンビニ飯。
笑いながら歩く夜道。
安い居酒屋。
狭い部屋。
不安定で。
でも。
確かに、生きていた。
『今は静か』
美月の声は穏やかだった。
『安心するよ』
そのあと。
少しだけ間が空く。
『でも、時々だけ寂しい』
レンは何も言えなかった。
それは多分。
もう戻れない恋を思い出した人間の声だった。
その時。
レンの胸の奥で、何かが静かに揺れた。
苦しいだけじゃない。
愛しい。
失った今でも。
まだ。
その感情が残っている。
レンはゆっくり聞いた。
「……俺たち」
声が少し震える。
「ちゃんと、好きだったんだな」
通話の向こうで。
美月が、静かに泣く気配がした。
読んでいただきありがとうございます!
レンと美月、少しずつ“過去”を共有し始めました。
次回、二人が再び会う可能性が動き始めます!




