第三十話 美月の部屋
人は、“正しい選択”をしても、時々、昔の愛を思い出してしまう。
レンとのメッセージが途切れたあと。
美月は、しばらくスマートフォンを見つめていた。
部屋は静かだった。
広いリビング。
整った家具。
高層マンションの夜景。
昔、レンと住んでいたアパートとは、何もかも違う。
不自由はなかった。
生活も安定している。
それなのに。
時々、息が詰まりそうになる。
美月はゆっくりソファへ座った。
テーブルの上には、一枚の写真が置かれている。
結婚式の写真。
隣には夫。
笑っている。
幸せそうだった。
少なくとも、“そう見える”写真だった。
美月はその写真を裏返す。
見たくなかった。
その時。
キッチンの棚に置かれた白いマグカップが目に入る。
縁が少し欠けている。
レンが昔、落として割りかけたものだった。
『これ捨てないでよ』
自分の声が蘇る。
『なんか、一緒にいた感じするから』
美月は目を閉じた。
胸が痛い。
忘れたかった。
本当は。
でも。
忘れられなかった。
レンはきっと、自分を恨んでいると思っていた。
いや。
恨まれて当然だった。
自分は逃げた。
レンを置いて。
苦しかった。
愛されることが。
レンの愛は、重かった。
依存に近かった。
でも同時に。
あれほど真っ直ぐ愛されたこともなかった。
美月はスマートフォンを開く。
レンとのメッセージ画面。
【ちゃんと忘れられたんだね】
送ったあとで、少し後悔した。
責めたいわけじゃなかった。
でも。
少しだけ、寂しかった。
自分だけが覚えていることが。
その時。
スマートフォンが震える。
夫からの連絡だった。
【今日は遅くなる】
短い文章。
美月は【了解】とだけ返す。
それで終わり。
静かだった。
穏やかで。
安定していて。
正しい人生。
でも。
ふと、思ってしまう。
もし。
あの時。
レンと別れていなかったら。
今、自分は不幸だったのだろうか。
美月は小さく笑った。
答えなんて、わからない。
ただ。
レンの名前を見た瞬間。
止まったはずの感情が、また少し動いてしまった。
それだけは、確かだった。
読んでいただきありがとうございます!
今回は初の“美月視点”でした。
次回、止まっていた二人の感情が再び動き始めます!




