第三話 君の名前を忘れた男
感情は、消えない。
たとえ記憶を失っても、傷だけは体に残る。
「何を売ったんですか」
レンはそう聞いた。
声が、自分でも驚くほど掠れていた。
黒いコートの男は、少しだけ目を伏せた。
「あなたは昨日、“ある女性に関する記憶”を売却されました」
その瞬間、レンの胸の奥で何かが軋んだ。
女性。
その言葉だけで、息が苦しくなる。
「……誰ですか」
「申し訳ありません。個人情報ですので」
「ふざけるな」
レンは思わず声を荒げた。
「俺の記憶だろ」
男は静かだった。
怒るでもなく、怯えるでもなく。
ただ、少しだけ悲しそうな顔をした。
「だからこそです」
店内は妙に静かだった。
棚に並ぶ無数の結晶だけが、淡く光っている。
レンは、その一つ一つが誰かの人生なのだと思った。
愛。
後悔。
幸福。
絶望。
人間の感情が、こんなふうに並べられている。
その光景に、吐き気がした。
「……いくらだった」
男はレンを見た。
「三百万円です」
やはり、と思った。
レンは笑いそうになった。
愛した記憶が、三百万円。
安いのか、高いのかもわからない。
「返してくれ」
男は静かに首を横に振った。
「売却された記憶は、原則返却不可です」
「原則?」
「買い手が同意した場合のみ、可能です」
レンは男を睨んだ。
「誰が買った」
男は答えない。
代わりに、小さな透明ケースを取り出した。
中には、結晶がひとつ入っている。
涙みたいな形だった。
「これは?」
「残滓です」
「……ざんし?」
「記憶は完全には消えません。強い感情ほど、破片として残る」
男はケースをレンに差し出した。
「あなたの場合、“愛情”が非常に強かった」
レンは、その結晶を見つめた。
綺麗だった。
吐き気がするほど。
ゆっくりと触れた瞬間――
女の声が聞こえた。
『レンってさ、お金ないくせに幸せそうだよね』
笑い声。
春の夜風。
缶チューハイの匂い。
断片だけが流れ込んでくる。
『でも私、そういうところ嫌いじゃないよ』
胸が、壊れそうに痛んだ。
知らない。
知らないはずなのに。
その言葉だけで、涙が出そうになる。
レンは唇を噛んだ。
「俺は……その人を愛してたんですか」
男は少し沈黙したあと、静かに言った。
「少なくとも、三百万円よりは」
レンの中で、何かが崩れた。
愛した女を売った。
自分の意思で。
そして今、その名前すら思い出せない。
それなのに。
喪失感だけが、胸の奥に残っている。
まるで傷跡みたいに。
「……その人に会いたい」
男はレンを見つめる。
「やめておいた方がいい」
「なんでだ」
男は、小さく息を吐いた。
「記憶を失った人間は、時々、元の感情に耐えられなくなる」
レンは理解できなかった。
けれど次の言葉は、妙にはっきり胸に刺さった。
「忘れることでしか、生きられなかった人もいるんです」
読んでいただきありがとうございます!
次回、レンは“買い手”について知ることになります。
透明都市の闇が、少しずつ見え始めます!




