第二話 三百万円の記憶
人は、忘れたいから記憶を売る。
けれど本当に消えるのは、“思い出”だけなのかもしれない。
会社に着いてからも、レンは何度も口座の画面を見返していた。
【入金:三百万円】
数字は変わらない。
夢ではないらしい。
「真壁さん、大丈夫ですか?」
同僚の坂井が、缶コーヒーを片手に近づいてくる。
「顔、死んでますよ」
「……寝不足だ」
「昨日遅かったんですか?」
レンは答えようとして、止まった。
昨日。
何をしていた?
思い出そうとすると、頭の奥が鈍く痛む。
坂井は苦笑しながら言った。
「例の店、行ったんじゃないですか?」
「……店?」
「え、覚えてないんですか」
坂井は少し声を潜める。
「記憶買取。最近流行ってるでしょ」
その瞬間、レンの胸がざわついた。
知らない言葉のはずなのに、なぜか知っている気がした。
「いらない記憶を売るんですよ。失恋とか、黒歴史とか。金になるらしいです」
「……そんなこと、できるのか」
「裏では普通らしいですよ。俺は怖いから無理ですけど」
坂井は軽く笑った。
けれどレンは笑えなかった。
――ああ、やっぱり売ったんだ。
その感覚だけが、嫌にリアルだった。
昼休み。
レンはひとりで会社を出た。
スマートフォンの履歴を開く。
深夜一時十二分。
タクシー利用履歴。
行き先は――
【月見坂記憶商会】
その文字を見た瞬間、喉がひどく渇いた。
都心外れの古い坂道。
曇った空。
細い路地の奥に、その店はあった。
黒い扉。
窓はない。
看板だけが、小さく灯っている。
【記憶・感情・後悔 査定いたします】
レンはしばらく立ち尽くした。
逃げた方がいい。
本能がそう告げている。
だが同時に、ここへ入らなければ一生わからない気もした。
レンは、扉を開けた。
鈴の音が鳴る。
店内は静かだった。
古い木の匂いがする。
薄暗い棚には、小さな透明結晶が無数に並んでいた。
まるで宝石みたいに、美しい。
その奥から、男が現れる。
黒いコート。
静かな目。
「お待ちしていました、真壁レンさん」
レンの背筋に冷たいものが走った。
「俺は……昨日ここに来たんですか」
男は穏やかに微笑む。
「はい。大切なものを、お売りになりました」
読んでいただきありがとうございます!
次回、レンは“自分が何を売ったのか”を知ることになります。
ここから物語の核心が少しずつ動き始めます!




