第二十五話 空白の朝
人は、“忘れた瞬間”から本当の喪失を始める。
光の中で。
レンは、美月の名前を何度も呼んでいた。
呼ばなければ消えてしまう気がした。
忘れたくなかった。
でも。
忘れたかった。
矛盾した感情が、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざっている。
『対象記憶を分離します』
機械音声が響く。
レンの視界に、無数の光が浮かんでいた。
夏。
海。
古いアパート。
狭いキッチン。
踏切。
泣いていた美月。
全部が、ゆっくり遠ざかっていく。
レンは必死に手を伸ばした。
でも届かない。
『対象感情の一部残滓を確認』
『完全消去不可』
男の声が、遠くで聞こえる。
レンは苦しそうに笑った。
完全には消えない。
そんなの、当たり前だった。
本当に愛したものが、簡単に消えるわけがない。
『対象人物名の深層固定を確認』
『強制遮断を実行します』
その瞬間。
美月という名前が、胸の奥から引き剥がされる。
レンは叫んでいた。
「やめ――」
声が途切れる。
光。
ノイズ。
そして。
静寂。
――次に目を開けた時。
白い天井が見えた。
涙が流れていた。
悲しくはない。
苦しくもない。
なのに。
涙だけが、勝手に頬を伝っている。
まるで体だけが、何かを覚えているみたいだった。
枕元のスマートフォンが震える。
【入金:三百万円】
レンはしばらく、その画面を見つめていた。
三百万円。
何をした金だ。
なぜか、嫌な感じがした。
胸の奥に、ぽっかり穴が開いている。
でも。
その穴が何なのか、わからない。
レンはゆっくり起き上がる。
部屋の空気は静かだった。
テーブル。
マグカップ。
ソファ。
全部いつも通り。
なのに。
“何か”だけが、決定的に失われている。
レンは頭を押さえた。
胸がざわつく。
思い出せない。
でも。
思い出してはいけない気もする。
その時。
床の隅で、何かが淡く光った。
透明な結晶。
涙みたいな形。
レンはゆっくり近づく。
胸が苦しかった。
理由もわからないまま。
そして。
震える指で、それに触れた。
読んでいただきありがとうございます!
第一話へ繋がる“空白の朝”が描かれました。
ここから物語は、“失ったあと”の世界へ進んでいきます!




