第二十四話 愛を売った男
本当に愛した人ほど、“忘れたい”と願ってしまう夜がある
「少しでも、楽になれるなら」
レンの声は、ほとんど空っぽだった。
黒い店内。
静かな照明。
雨音だけが、遠くで聞こえている。
黒いコートの男は、レンを見つめていた。
同情も。
驚きも。
ない。
ただ。
“こういう夜”を何度も見てきた人間の目だった。
「対象を確認します」
男は静かに端末を開く。
「売却対象は、“恋愛記憶一式”でよろしいですか」
レンは少し黙った。
恋愛記憶。
その言葉だけで、胸が痛む。
美月。
笑っていた顔。
泣いていた顔。
好きだった。
本当に。
でも。
もう無理だった。
思い出すたび壊れそうになる。
だから。
「……はい」
レンは頷いた。
男は確認する。
「対象人物名を指定してください」
レンの唇が震える。
「……美月」
名前を口にした瞬間。
また涙が出そうになる。
男は淡々と入力していく。
「感情深度が高いため、一部残滓が発生する可能性があります」
レンは苦笑した。
「全部消えないのか」
「人間は、そこまで綺麗には忘れられません」
その言葉が、妙に優しかった。
男は静かに一枚の契約書を差し出す。
レンは目を落とした。
そこには、細かな注意事項が並んでいる。
【売却後、対象人物への強い執着・喪失感が残る場合があります】
【対象人物名を思い出せなくなる可能性があります】
【重大な感情欠損が発生する場合があります】
レンは笑いそうになった。
もう十分、壊れている。
今さら何を失う。
ペンを持つ。
指が震えていた。
その時。
スマートフォンが震える。
レンはぼんやり画面を見た。
美月だった。
呼吸が止まりそうになる。
しばらく迷って。
通話を取る。
『……もしもし』
美月の声。
その瞬間。
胸の奥が、ぐしゃぐしゃになる。
レンは何も言えなかった。
美月も、しばらく黙っていた。
そして。
小さく言った。
『ごめんね』
また、その言葉だった。
レンは目を閉じる。
苦しい。
愛しかった。
今でも。
「……幸せになれよ」
やっと、それだけ言えた。
電話の向こうで、美月が泣く気配がした。
『レンもね』
通話が切れる。
静寂。
レンはしばらく動けなかった。
そして。
ゆっくり契約書へサインを書く。
真壁レン。
自分の名前。
その下。
【売却実行】
男が静かに言った。
「では、記憶を回収します」
透明な機械が起動する。
淡い光。
レンは目を閉じた。
美月。
愛してた。
本当に。
だから。
もう。
思い出したくなかった。
光が、静かにレンを包み込む。
読んでいただきありがとうございます!
ついにレンが“愛を売った瞬間”が描かれました。
次回、第一話へ繋がる“空白の朝”へ戻っていきます!




