第二十話 幸せだった頃
人は、“幸せだった記憶”に一番苦しめられる。
本当に大切だったものほど、失ったあとも心に残り続けるから。
「……美月」
レンは、その名前を何度も口の中で繰り返していた。
美月。
たった二文字。
それだけで。
胸の奥に閉じ込められていた感情が、一気に溢れ出してくる。
苦しい。
でも同時に。
どうしようもなく、愛しかった。
レンは涙を拭いながら、床へ座り込んでいた。
アカネは少し離れた場所から、その姿を静かに見ている。
まるで。
壊れていく人間を観察するみたいに。
でも。
その目には、少しだけ羨望も混じっていた。
「……思い出したのね」
レンはゆっくり頷く。
美月。
名前を思い出した瞬間。
記憶の断片が、少しずつ繋がり始めていた。
夏。
古いアパート。
狭いキッチン。
『レン、それ絶対焦げるって』
笑い声。
美月が後ろから抱きついてくる。
『だから料理は私がやるって言ったじゃん』
レンは思わず笑っていた。
幸せだった。
本当に。
金なんかなくても。
未来なんか見えなくても。
あの頃、自分は確かに幸せだった。
その時。
また別の記憶が流れ込んでくる。
夜。
終電後の駅。
ベンチに並んで座る二人。
『ねえレン』
美月が静かに言う。
『もしさ』
『私がいなくなったら、どうする?』
レンは笑って答えていた。
『探す』
『見つからなかったら?』
『死ぬまで探す』
美月は困ったように笑う。
『重いなぁ』
でも。
その声は少しだけ嬉しそうだった。
レンは頭を押さえた。
痛い。
記憶が戻るたび、胸が裂けそうになる。
でも止まらない。
止めたくなかった。
「……俺」
レンは掠れた声で呟く。
「本当に、あいつが全部だったんだな」
アカネは静かに答える。
「ええ」
レンは苦笑した。
今ならわかる。
あれは愛だった。
でも同時に。
依存でもあった。
美月がいなくなった瞬間。
自分の世界ごと壊れてしまうくらいに。
その時。
アカネが小さく聞いた。
「……後悔してる?」
レンは少し黙る。
そして。
静かに言った。
「わからない」
アカネは目を細める。
レンは続けた。
「苦しい」
「思い出さなきゃよかったって思う」
胸が痛い。
涙も止まらない。
でも。
「それでも」
レンは金色の結晶を見る。
「忘れたままよりは、ずっといい」
アカネは、その言葉を静かに聞いていた。
そして。
ほんの少しだけ。
泣きそうな顔をした。
読んでいただきありがとうございます!
美月との“幸せだった頃”が少しずつ戻ってきました。
次回、二人が壊れていった理由へ踏み込んでいきます!




