第百四十話 透明じゃなくなった世界
感情は、人を苦しめる。
でも同時に、“誰かを大切だと思う温度”も与えてくれる。
窓の外では、雪が静かに降っていた。
白い夜。
音を吸い込む冬の街。
リビングには、重たい沈黙が残っている。
美月は、涙で濡れた目を伏せたまま動けなかった。
旦那の言葉が、まだ胸へ残っている。
“失いたくなかった”。
その一言には。
愛情も。
寂しさも。
後悔も。
全部入っていた。
その時。
旦那が、静かに息を吐く。
そして。
少しだけ笑った。
「……なんか、不思議だな」
美月が顔を上げる。
旦那は窓の外を見ながら続けた。
「昔の透明都市ってさ」
「こんなことで苦しまなくて済んだんだろうね」
その言葉で。
部屋の空気が、少しだけ揺れた。
感情を閉じ込めていた世界。
好きも。
寂しさも。
執着も。
全部薄かった頃。
あの世界なら、多分。
こんな痛みはなかった。
でも。
こんな温度も、なかった。
旦那は、小さく笑う。
「正直、めちゃくちゃ苦しいけど」
少し間。
「でも今の方が、“生きてる”感じする」
その瞬間。
美月は、息を呑んだ。
旦那は続ける。
「前の俺、多分」
「ちゃんと感情動いてなかった」
「美月がいることも」
「毎日の生活も」
「当たり前に流れてた」
視線を落とす。
「でも今は」
苦笑する。
「失いたくないって、ちゃんと思ってる」
その言葉は。
悲しいのに、どこか温かかった。
感情って、多分。
人を不幸にする。
苦しませる。
壊すこともある。
でも同時に。
“誰かを大切だと思う実感”も連れてくる。
その時。
美月が、震える声で言った。
「……ごめんなさい」
旦那は、ゆっくり首を横に振る。
「今は、謝らなくていい」
美月が目を見開く。
旦那は続けた。
「多分これ」
「誰が悪いとかだけじゃないから」
静かな声だった。
でも。
その言葉は、驚くほど優しかった。
美月は、涙を堪えきれなくなる。
旦那も、少しだけ目を赤くしていた。
その時。
時計の針が、静かに零時を越える。
新しい日。
でも。
まだ何も答えは出ていない。
それでも。
二人ともわかっていた。
もう、この世界は“透明”には戻らない。
感情を知ってしまった。
愛情を知ってしまった。
失う痛みを知ってしまった。
だからもう。
前みたいに、“何も感じないふり”では生きられない。
その時。
窓の外で、雪が静かに街を白く染めていく。
透明都市。
感情を閉じ込めていた街。
でも今は。
泣きながらでも、誰かを大切だと思える人間たちの街へ変わっていた。
読んでいただきありがとうございます!
第百四十話です。
ここまで来ると、この物語のテーマがかなり輪郭を持ち始めています。
“感情は、人を不幸にするのか?”
その問いに対する、透明都市なりの答えが少しずつ見え始めてきました。




