第百三十九話 失いたくなかったもの
人は、“失う瞬間”になって初めて、当たり前の日常の温度へ気づく。
だから別れは、いつも少し遅れて痛みになる。
夜は、静かに更けていった。
リビングの照明だけが、柔らかく部屋を照らしている。
美月は、泣き疲れたように俯いていた。
旦那は、向かい側で静かに座っている。
怒鳴り合いもない。
物が飛ぶこともない。
でも。
その静かな時間が、何より苦しかった。
その時。
旦那が、ぽつりと呟く。
「……いつから?」
美月の肩が、小さく震える。
責める声じゃない。
でも。
逃げられない問いだった。
美月は、涙を拭きながら答える。
「ちゃんと気づいたのは……最近」
声が掠れる。
「最初は、多分」
「懐かしかっただけだった」
昔の自分。
感情を閉じ込めていなかった頃。
笑って。
泣いて。
寂しいって言えていた頃。
レンといると、その頃の感情が戻ってきた。
だから。
惹かれてしまった。
旦那は、静かに聞いている。
途中で遮らない。
その優しさが、今日はいっそ残酷だった。
美月は続ける。
「でも」
涙で滲む視界。
「あなたとの時間が嫌だったわけじゃないの」
旦那が、少しだけ目を伏せる。
美月は必死に続けた。
「ほんとに大事だった」
「今も」
「ちゃんと」
その言葉は、本心だった。
だから苦しい。
もし旦那が酷い人なら。
もっと簡単に、“悪者”にできた。
でも違う。
優しくて。
温かくて。
ちゃんと愛されていた。
その時。
旦那が、小さく笑った。
でも。
その笑顔は少し壊れそうだった。
「……それ、一番きついな」
美月の胸が締め付けられる。
旦那は続けた。
「嫌いになったわけじゃない」
「大事じゃなくなったわけでもない」
少し間。
「でも、他に好きな人ができた」
静かな声だった。
でも。
その静けさの奥で、ちゃんと傷ついている。
旦那は、ソファへ深く座り直す。
そして。
ぽつりと言った。
「……俺さ」
美月が顔を上げる。
旦那は苦笑した。
「ちゃんと幸せだったんだよ」
その言葉で。
美月の涙が、また溢れた。
旦那は続ける。
「毎日一緒にご飯食べて」
「くだらない話して」
「休みの日ダラダラして」
小さく笑う。
「そういう普通の生活、好きだった」
部屋の空気が、静かに痛む。
普通。
日常。
当たり前。
人は、多分。
失いそうになった時、初めてその温度へ気づく。
その時。
旦那が、美月を見る。
少し赤くなった目。
でも。
怒ってはいなかった。
ただ。
とても寂しそうだった。
「……俺は」
少し間。
「失いたくなかったな」
その一言が。
静かに、美月の胸を深く切った。
読んでいただきありがとうございます!
今回は、“失いたくなかったもの”を描きました。
この物語は今、“誰かが悪い話”ではなく、“それでも感情は動いてしまう話”へ進んでいます。




