第百三十八話 優しい人の痛み
本当に優しい人は、怒る前に傷つく。
だからその痛みは、時々怒鳴り声より深く胸へ残る。
部屋の中は、静かだった。
時計の秒針だけが響いている。
カレーの匂い。
暖房の音。
どこにでもある夜。
でも。
その日常は、もう昨日までと同じではなかった。
美月は、涙を拭えないまま俯いている。
旦那は、向かい側で静かに座っていた。
怒鳴らない。
責めない。
でも。
その静けさが、逆に胸を締め付ける。
長い沈黙。
やがて。
旦那が、小さく笑った。
「……なんとなく、そんな気してた」
美月の肩が、少し揺れる。
旦那は続けた。
「最近、前より感情動いてたから」
「楽しそうだったし」
少し間。
「でも、同時にどっか苦しそうだった」
その言葉を聞いた瞬間。
美月は、また涙が溢れそうになる。
この人は、本当にちゃんと見ていた。
自分を。
旦那は、少し視線を落とす。
そして。
静かに聞いた。
「……その人のこと、好きなんだ」
美月は、すぐには答えられなかった。
でも。
もう誤魔化したくなかった。
だから。
小さく頷く。
「……うん」
その瞬間。
旦那は、少しだけ目を閉じた。
ほんの一瞬。
でも。
確かに傷ついた顔だった。
美月の胸が、深く痛む。
その時。
旦那がぽつりと言った。
「そっか」
また、その言葉だった。
短い。
でも。
そこにある感情は、短くなかった。
旦那は、しばらく黙っていた。
やがて。
静かに笑う。
「……なんかさ」
美月が顔を上げる。
旦那は苦笑した。
「ちゃんとショックなんだよね、今」
その言葉が、静かに落ちる。
怒りじゃない。
責めたいわけでもない。
でも。
ちゃんと傷ついている。
その“普通の痛み”が、あまりにも人間らしくて。
美月は、息が苦しくなる。
旦那は続けた。
「俺、多分」
少し迷う。
そして。
静かに言った。
「美月がいるの、当たり前になってた」
その瞬間。
美月の涙が、また零れる。
旦那は、美月を見る。
怒っていない。
でも。
寂しそうだった。
「別に、“雑に扱ってた”とかじゃないんだよ」
「ちゃんと大事だった」
「でも」
少し間。
「“失うかもしれない”って考えたことなかった」
その言葉は。
美月だけじゃなく。
多分、旦那自身の胸も傷つけていた。
人は時々。
失いそうになって初めて、“どれだけ大切だったか”に気づく。
その時。
旦那が、少し困ったように笑う。
「……ごめん」
美月が目を見開く。
旦那は続けた。
「こういう時、もっと怒れたらよかったんだけど」
苦笑する。
「今、普通に悲しい方が強い」
その瞬間。
美月は、声を押し殺しながら泣いた。
優しい人の痛みは。
怒鳴り声より、ずっと苦しかった。
読んでいただきありがとうございます!
今回は、“優しい人が傷つく瞬間”を描いてみました。
感情を取り戻した世界では、“悲しい”という感情もまた、誰かを深く変えていきます。




