第百三十四話 選べない優しさ
“誰も傷つけない優しさ”は、時々ただの逃避になる。
人はいつか、“自分で選ぶ痛み”と向き合わなければいけない。
昼過ぎの黒い店は、珍しく静かだった。
雪の影響か、人通りも少ない。
窓の外では、白く残った雪がゆっくり溶け始めている。
レンは、カウンターでぼんやり珈琲を飲んでいた。
スマホは伏せたまま。
今日はまだ、美月から連絡は来ていない。
でも。
不思議と、“来ないかもしれない”とは思えなかった。
その時。
店のベルが鳴る。
入ってきたのは、見覚えのある女性だった。
“怒れなかった人”。
以前、この店で初めて怒りを認めた女性。
女性は少し笑う。
「こんにちは」
前より、顔色が良かった。
アカネが珈琲を淹れながら言う。
「久しぶり」
女性は席へ座る。
そして。
少し迷ったあと、ぽつりと言った。
「離婚、しました」
店内が静まる。
レンは、静かに顔を上げた。
女性は苦笑する。
「って言っても、最近ですけど」
「別に、嫌いになったわけじゃないんです」
窓の外を見る。
冬の街。
女性は続けた。
「むしろ、今でも大事です」
「でも」
少し間。
「一緒にいるほど、自分が消えていく感じして」
その言葉が、静かに落ちる。
レンの胸が、小さく揺れる。
女性は続けた。
「相手は優しかったんです」
「暴力とかもないし」
「ちゃんと家族として大事にしてくれてた」
苦笑する。
「だから余計に、自分の苦しさ認められなかった」
アカネは黙って聞いている。
女性は、小さく息を吐いた。
「“優しい人なんだから我慢しなきゃ”って」
「ずっと思ってました」
その瞬間。
レンは、美月を思い出していた。
優しい旦那。
温かい日常。
だからこそ、“苦しい”と言えない感情。
その時。
女性がぽつりと言う。
「でもね」
レンが顔を向ける。
女性は少し笑った。
「ある日、気づいたんです」
「“優しいから離れちゃいけない”って」
「それ、本当の優しさじゃないなって」
店内が静かになる。
女性は続けた。
「相手のためじゃなくて」
「“悪者になりたくない自分”のためだったんです」
その言葉が、深く胸へ落ちる。
レンは、目を伏せる。
悪者になりたくない。
誰も傷つけたくない。
でも。
その“優しさ”が、本当に相手のためなのか。
時々、人は分からなくなる。
その時。
女性は、少しだけ柔らかい顔で笑った。
「もちろん、今も苦しいです」
「元旦那のこと、普通に心配になりますし」
「夢にも出ます」
少し笑う。
「でも、ちゃんと自分で選んだ苦しさだから」
窓の外を見る。
雪解けの街。
「前より息ができるんです」
その言葉を聞いた瞬間。
レンの胸が、静かに痛んだ。
選ぶ。
人を傷つける可能性も含めて。
自分で人生を選ぶ。
それはきっと。
“正しい”より、ずっと怖いことだった。
読んでいただきありがとうございます!
今回は、“選べない優しさ”について描いてみました。
優しさと逃避は、時々とても似た顔をしています。




