第百十八話 誰にも見せない感情
人には、“誰にも見せない感情”がある。
笑っている人ほど、静かな場所で泣いていたりする。
夜の黒い店には、静かな雨音が響いていた。
冬の雨。
細く、冷たい音。
レンはカウンター席で、ぼんやりスマートフォンを見ている。
美月との通話が終わってから、少し時間が経っていた。
胸の奥には、まだあの言葉が残っている。
“失いたくなかった”。
多分。
恋愛って、“好き”だけじゃ説明できない。
失った時間。
戻れない過去。
そういうもの全部込みで、人は誰かを想い続ける。
その時。
店のベルが鳴る。
入ってきたのは、アカネだった。
コンビニ袋をぶら下げている。
レンが目を瞬かせる。
「休みじゃなかったっけ」
アカネは濡れた髪を軽く払う。
「なんか店閉めるの落ち着かなくて」
雪斗は今日は奥で作業中らしい。
店には、レンとアカネだけ。
アカネはカウンターへ座る。
そして。
コンビニのホットコーヒーを見つめながら、ぽつりと言った。
「……最近さ」
レンが顔を向ける。
アカネは少し迷う。
珍しかった。
この人が、“話す前に迷う”のは。
やがて。
小さく笑う。
「感情戻ってから、昔のこと夢見るようになった」
レンは黙って聞いている。
アカネは続けた。
「昔付き合ってた人とか」
「家族とか」
「もう会ってない友達とか」
視線が落ちる。
「忘れたつもりだったのにね」
その声は。
少しだけ疲れていた。
レンは、ふと気づく。
アカネはずっと、“人の感情を受け止める側”だった。
だから。
自分の感情を話すことが、ほとんどない。
その時。
レンが静かに聞く。
「アカネってさ」
「ちゃんと泣いたことある?」
アカネが、一瞬だけ固まる。
そして。
小さく吹き出した。
「なによその質問」
レンは肩をすくめる。
「いや、なんか」
「泣かなそうだから」
アカネは苦笑する。
でも。
そのあと、少しだけ静かになった。
雨音だけが響く。
やがて。
アカネは窓の外を見ながら、ぽつりと言った。
「……昔、一回だけ」
レンは黙って聞く。
アカネは続けた。
「ほんとに好きだった人がいたの」
その瞬間。
レンは少し驚く。
アカネは、どこか遠くを見る目をしていた。
「でもね」
少し笑う。
「その人、“感情重い”の苦手な人だった」
胸が少し痛むような笑い方だった。
アカネは続ける。
「だから、ずっと軽い感じでいた」
「平気そうにして」
「依存しないふりして」
「大丈夫な女やってた」
レンは、静かに息を呑む。
その姿が、少し想像できてしまった。
アカネは苦笑する。
「で、向こうが結婚するって聞いた時」
少し間。
「帰り道で吐くほど泣いた」
店内が静まる。
雨音だけが響いている。
アカネは、小さく笑った。
「みっともなかったわよ」
でも。
その笑顔は、少しだけ寂しかった。
レンは、何も言えなかった。
アカネみたいな人でも。
誰にも見せない場所で、ちゃんと壊れていた。
その時。
アカネがぽつりと言う。
「人ってさ」
レンが顔を向ける。
アカネは、静かに続けた。
「“見せてる感情”だけじゃないのよね」
窓の外を見る。
雨の街。
「誰にも見せないまま、抱えて終わる感情もある」
その言葉が。
レンの胸へ、静かに残った。
読んでいただきありがとうございます!
今回は、アカネの過去へ少し触れてみました。
“感情を扱う側の人間”もまた、感情から逃げられないのかもしれません。




