第百十四話 選ばなかった感情
人は、“選んだ感情”だけで生きているわけじゃない。
手放した想いもまた、静かに人生へ残り続ける。
数日後。
透明都市には、少し早い冬の空気が流れていた。
レンは、黒い店の窓際でぼんやり外を見ている。
街は戻り始めていた。
泣く人。
笑う人。
怒る人。
感情を取り戻した街は、前より少し騒がしい。
でも。
その騒がしさが、今はどこか心地よかった。
その時。
店のベルが鳴る。
入ってきたのは、美月だった。
白いマフラー。
少し冷えた頬。
美月はレンを見ると、小さく笑った。
「おつかれ」
レンも軽く手を上げる。
「珍しいじゃん、平日に」
美月はコートを脱ぎながら答える。
「近くで仕事だったから」
アカネが珈琲を置く。
「はい、修羅場予備軍二人組」
レンが顔をしかめる。
「言い方」
美月は吹き出した。
でも。
笑ったあと、少しだけ静かになる。
その空気を。
レンはちゃんと感じ取っていた。
美月は、珈琲の湯気を見ながらぽつりと言う。
「この前ね」
レンが顔を向ける。
美月は続けた。
「旦那さんと、映画観に行ったの」
レンの胸が、少しだけ揺れる。
でも。
黙って聞く。
美月は苦笑した。
「で、帰り道に」
「“最近よく笑うようになったね”って言われた」
店内が静かになる。
美月は視線を落とした。
「嬉しかったんだよ」
少し声が震える。
「ちゃんと見てくれてたんだって思って」
レンは何も言えなかった。
美月は続ける。
「でも同時に」
「レンのこと考えてる自分もいて」
指先が、カップを少し強く握る。
「なんか、ぐちゃぐちゃになる」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
レンは息を吐く。
恋愛って、多分。
“どっちが好きか”だけじゃない。
時間。
安心。
情。
積み重ね。
全部が混ざる。
だから。
簡単に選べない。
その時。
美月が小さく笑った。
「最低だよね」
レンは、静かに首を横に振る。
「……違うと思う」
美月が顔を上げる。
レンは続けた。
「ちゃんと、人を大事にしてるから苦しいんだろ」
店内が静まる。
美月の目が、少し揺れた。
レンは苦笑する。
「もし本当に最低なら」
「多分、もっと簡単に誰か傷つけてる」
その瞬間。
美月の目に、少し涙が滲んだ。
でも。
泣かなかった。
ただ。
小さく笑った。
「……レンって、ずるい」
レンが眉をひそめる。
美月は、少し寂しそうに続けた。
「そうやって、“選ばなかった感情”まで大事にしようとするから」
その言葉の意味を。
レンはすぐには理解できなかった。
でも。
胸の奥へ、静かに残った。
人はきっと。
選んだ感情だけで生きているわけじゃない。
諦めた感情。
言えなかった想い。
選ばなかった愛情。
そういうものも抱えながら、生きていく。
読んでいただきありがとうございます!
今回は、“選ばなかった感情”というテーマを描いてみました。
大人になるほど、人の気持ちは“白黒だけ”では整理できなくなっていきます。




