第百十三話 優しい日常
大人になると、“好きだから一緒にいたい”だけでは動けなくなる。
でも、その不器用さもきっと愛の形なのだ。
美月と別れたあと。
レンは、一人で夜道を歩いていた。
透明都市の夜。
ネオンの光。
静かな風。
胸の奥が、少しだけ重い。
苦しいわけじゃない。
でも。
簡単じゃない感情が、静かに残っていた。
その時。
スマートフォンが震える。
美月からだった。
【今帰った】
短いメッセージ。
そのあと、すぐもう一件届く。
【今日ありがと】
レンは画面を見つめる。
少し迷ってから、返信した。
【こちらこそ】
送信。
でも。
そのあと、言葉が続かなかった。
昔なら。
もっと繋がっていたかった。
返信速度。
文章の温度。
全部気にしていた。
でも今は。
美月が“帰る場所”へ帰ったことを、ちゃんと理解していた。
その理解が、大人になることなのか。
それとも、諦めなのか。
レンにはまだわからない。
その時。
スマホへ、一枚の写真が送られてくる。
テーブルの写真だった。
湯気の立つ味噌汁。
焼き魚。
少し焦げた卵焼き。
家庭の匂いがする写真。
そして。
メッセージ。
【卵焼き失敗して笑われた】
レンは、思わず小さく笑った。
胸が少し痛む。
でも同時に。
少し安心もした。
美月は、ちゃんと今を生きている。
“レンだけ”になっていない。
その時。
レンは、ふと気づく。
昔の自分なら。
この写真を見て苦しくなっていた。
嫉妬して。
比べて。
壊れていた。
でも今は違う。
もちろん痛い。
でも。
“美月が笑ってる日常”を、ちゃんと大事にしたいと思っている。
その感情は。
多分、昔より少しだけ成熟した愛だった。
その時。
またメッセージが届く。
【レンは今なにしてるの】
レンは夜空を見る。
少し考える。
そして。
【歩いてる】
送信。
数秒後。
【そっか】
それだけ。
でも。
その短い会話が、妙に優しかった。
無理に未来を決めない。
答えを急がない。
ただ。
今、お互いが存在していることを確認するみたいな会話。
レンは、静かに息を吐く。
透明都市の夜風が、頬を撫でていく。
恋愛って、多分。
“手に入れること”だけじゃない。
誰かの日常を。
壊さないまま、大事に思ってしまうこともある。
読んでいただきありがとうございます!
今回は、“答えを急がない関係”を描いてみました。
感情を取り戻したからこそ、“簡単に選べない優しさ”もまた生まれていきます。




