第百十一話 言葉にならない時間
“安心だけの恋”は、多分どこにもない。
それでも人は、不安ごと誰かを好きになっていく。
夜の水族館は、静かだった。
青い光。
ゆっくり漂うクラゲ。
水の揺れる音。
平日の夜だからか、人も少ない。
レンは、美月と並んで歩いていた。
昔も、こうして歩いたことがある。
でも。
あの頃とは、少し違った。
無理に会話を繋がなくても苦しくない。
沈黙が、“不安”じゃなくなっていた。
美月が水槽を見ながら呟く。
「なんかさ」
レンが顔を向ける。
美月はクラゲを見つめたまま続けた。
「前より、人の顔見るようになった」
レンは少し考える。
「どういうこと?」
美月は小さく笑った。
「前って、“自分がどう思われてるか”ばっか気にしてた気がする」
その言葉に。
レンの胸が少し揺れる。
わかってしまった。
恋愛って時々。
“相手を見る”より、“嫌われないか確認する”になってしまう。
美月は続けた。
「でも最近」
クラゲの光が、横顔を照らす。
「レンが何見てるかとか」
「何考えてそうかとか」
「そういうの見る余裕できた」
レンは、小さく笑った。
「成長じゃん」
美月が吹き出す。
「上からだなあ」
二人で少し笑う。
その時間が、やけに穏やかだった。
その時。
大きな水槽の前で、二人は立ち止まる。
青い魚たちが、静かに泳いでいる。
レンは、その光景をぼんやり見つめていた。
美月が小さく聞く。
「ねえ」
レンが顔を向ける。
美月は少し迷う。
そして。
静かに言った。
「まだ怖い?」
レンは意味をすぐ理解した。
失うこと。
壊れること。
また依存してしまうこと。
レンは少し考える。
そして。
正直に頷いた。
「怖いよ」
美月は黙って聞いている。
レンは続けた。
「でも、多分」
水槽を見る。
青い光が揺れている。
「怖くなくなる日は来ない気がする」
美月の目が少し揺れた。
レンは苦笑する。
「好きって、そういうもんかも」
「失いたくないって感情込みで」
しばらく沈黙。
でも。
その沈黙は、痛くなかった。
美月は、小さく笑う。
「なんか」
「前より、大人になったね」
レンも笑う。
「お互いな」
その時。
クラゲの水槽が、ゆっくり二人を青く照らした。
レンはふと思う。
恋愛って、多分。
“永遠に不安がなくなる関係”じゃない。
不安も抱えたまま。
それでも、“隣にいたい”と思い続けることなのだ。
その時。
美月の手が、そっとレンの袖を掴む。
小さい動作。
でも。
その温度が、ひどく愛しかった。
読んでいただきありがとうございます!
今回は、“恋愛の静かな変化”を描いてみました。
大きな事件が終わったあとだからこそ見える、“言葉にならない時間”があります。




