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透明都市アーカイブ―愛を売った男たち―  作者: 秀人


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第百十話 感情は育つ

“好き”は、大声で始まらない。

小さな心地よさを、大事にした先で育っていく。

 店を出る頃には、雨はすっかり止んでいた。


 


 


 女性は、少しだけ軽くなった顔をしている。


 


 


 帰り際。


 


 


 扉の前で、彼女は小さく振り返った。


 


 


 「……また、水族館行ってみます」


 


 


 その声は、最初より少しだけ柔らかかった。


 


 


 アカネが軽く手を振る。


 


 


 「クラゲは裏切らないからね」


 


 


 女性は思わず吹き出した。


 


 


 そして。


 


 


 少し笑ったまま、夜の街へ消えていく。


 


 


 ベルの音が、静かに鳴った。


 


 


 レンは、その扉をぼんやり見つめる。


 


 


 その時。


 


 


 雪斗がぽつりと言った。


 


 


 「“好き”ってさ」


 


 


 レンが顔を向ける。


 


 


 雪斗はカウンターへ寄りかかりながら続けた。


 


 


 「感情の中でも、特に育つの時間かかる気がする」


 


 


 アカネが珈琲を淹れながら言う。


 


 


 「わかる」


 


 


 雪斗は続ける。


 


 


 「怒りとか悲しみって、結構すぐわかるじゃん」


 


 


 「痛いから」


 


 


 レンは小さく頷く。


 


 


 確かにそうだ。


 


 


 苦しい感情は、強制的に気づかされる。


 


 


 でも。


 


 


 “好き”は違う。


 


 


 静かだ。


 


 


 小さい。


 


 


 放っておくと、簡単に周囲の音へ埋もれてしまう。


 


 


 雪斗は苦笑する。


 


 


 「だから、“自分が何好きかわかんない人”って結構多い」


 


 


 アカネが言う。


 


 


 「特に、“ちゃんとしてる人”ね」


 


 


 レンは少し笑う。


 


 


 「それ偏見だろ」


 


 


 アカネは肩をすくめる。


 


 


 「でも実際そう」


 


 


 「真面目な人ほど、“やるべきこと”優先しすぎるから」


 


 


 「“好き”育てる時間ないのよ」


 


 


 その言葉で。


 


 


 レンは昔の自分を思い出す。


 


 


 愛されたい。


 


 


 嫌われたくない。


 


 


 そういう感情ばかりで。


 


 


 “自分が何を好きか”なんて、ちゃんと考えたことがなかった。


 


 


 その時。


 


 


 スマートフォンが震える。


 


 


 美月からだった。


 


 


 【今ヒマ?】


 


 


 レンは少し笑う。


 


 


 【いるけど】


 


 


 すぐ返信が来る。


 


 


 【水族館いこ】


 


 


 レンは思わず吹き出した。


 


 


 アカネが怪しい顔をする。


 


 


 「なにニヤニヤしてんの」


 


 


 レンはスマホを伏せる。


 


 


 「別に」


 


 


 雪斗が小さく笑った。


 


 


 「わかりやす」


 


 


 レンは苦笑しながら立ち上がる。


 


 


 その時。


 


 


 ふと気づく。


 


 


 昔の自分なら。


 


 


 “恋人に誘われた”ことばかり気にしていた。


 


 


 嫌われてないか。


 


 


 愛されてるか。


 


 


 不安ばかり見ていた。


 


 


 でも今は違う。


 


 


 単純に。


 


 


 “美月とクラゲ見たいな”と思っている。


 


 


 それがなんだか、少し嬉しかった。


 


 


 レンはコートを羽織る。


 


 


 店の扉を開ける。


 


 


 雨上がりの夜風が、静かに吹き込んだ。


 


 


 透明都市。


 


 


 感情を失いかけた街。


 


 


 でも今は。


 


 


 小さな“好き”たちが、あちこちで静かに育ち始めていた。

読んでいただきありがとうございます!

今回は、“好きという感情は育つもの”というテーマでした。

大きな愛情も、最初はきっと“小さな心地よさ”から始まるのかもしれません。

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