第百九話 好きがわからない
“好き”は、突然見つかるものじゃない。
小さな感情を、ちゃんと拾い続けた先にある。
雨上がりの透明都市は、少しだけ光って見えた。
濡れた道路。
ネオンの反射。
冷たい夜風。
レンは、店の外へ出て煙草を吸っている雪斗を見つけた。
煙が、静かに夜へ溶けていく。
レンは隣へ立つ。
雪斗が言う。
「最近、依頼の種類変わったよな」
レンは苦笑する。
「まあ、“感情戻った後”の相談増えたし」
雪斗は小さく頷く。
その時。
店のベルが鳴った。
入ってきたのは、二十代くらいの女性だった。
ロングコート。
綺麗な顔立ち。
でも。
その目は、どこか迷子みたいだった。
女性は席へ座る。
そして。
少し迷ったあと、こう言った。
「私、“好き”がわからないんです」
店内が静まる。
アカネが静かに珈琲を置いた。
女性は続ける。
「恋愛も」
「趣味も」
「やりたいことも」
「全部、“なんとなく”で生きてきて」
少し笑う。
でも。
その笑顔は、空っぽだった。
「周りに合わせるの得意だったんです」
「流行ってるもの好きって言って」
「恋人できたら、“好きなふり”して」
「楽しそうに笑って」
視線が落ちる。
「でも最近、感情戻ってきて」
指先が小さく震える。
「急に全部わかんなくなったんです」
レンは静かに聞いている。
女性は苦しそうに笑った。
「私、ほんとに誰かを好きになったことあるのかなって」
その声は。
“空っぽさ”への恐怖だった。
その時。
アカネがぽつりと言う。
「“好き”って、結構難しいから」
女性が顔を上げる。
アカネは続けた。
「人間、“好き”より先に、“嫌われない方”覚えるし」
店内が静まる。
レンは、その言葉を静かに噛みしめる。
確かに。
人はまず、“生き残る方法”を覚える。
空気読む。
合わせる。
嫌われない。
その結果。
“自分が何を好きか”が見えなくなる人もいる。
女性は、小さく呟く。
「私、ずっと」
「“これ好きなんでしょ?”って言われたものを」
「好きってことにしてきた気がする」
雪斗が煙草を消しながら言う。
「それ、結構普通」
女性が少し驚く。
雪斗は肩をすくめた。
「自分の感情って、ちゃんと育てないとわかんなくなるから」
「特に、“周り優先”で生きてると」
女性は静かに俯く。
多分。
今まで、“誰かに合わせること”で生きてきた。
だから。
自分の感情を確認する機会がなかった。
その時。
レンが静かに聞く。
「最近、ちょっとでも気になったものないですか」
女性は少し考える。
長い沈黙。
やがて。
すごく小さい声で言った。
「……水族館」
レンが目を瞬かせる。
女性は少し恥ずかしそうに笑う。
「クラゲ見てる時だけ」
「ちょっと、落ち着く気がして」
その瞬間。
アカネが小さく笑った。
「じゃあ、それ好きなんじゃない?」
女性は、ぽかんとする。
アカネは続けた。
「“好き”って、最初そんな大げさじゃないわよ」
「なんか落ち着くとか」
「なんか気になるとか」
「もう一回見たいとか」
少し笑う。
「だいたいそこから始まる」
女性の目が、少しだけ揺れた。
まるで。
初めて“自分の感情”を拾ったみたいに。
読んでいただきありがとうございます!
今回は、“自分の好きがわからない人”の物語でした。
感情を取り戻すことは、“本当の自分の感覚”を探し直すことでもあるのかもしれません。




