第百七話 怒れなかった人
怒りは、悪い感情じゃない。
時々それは、“自分を守るための悲鳴”でもある。
雨が降っていた。
透明都市の夜。
濡れたアスファルトへ、ネオンが滲んでいる。
黒い店の窓にも、小さな雨粒が流れていた。
レンはカウンターで珈琲を飲んでいる。
最近、この店には“感情を取り戻した人”がよく来る。
泣けなかった人。
悲しめなかった人。
愛し方を忘れていた人。
みんな。
“戻ってきた感情”に戸惑っていた。
その時。
扉のベルが鳴る。
入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。
スーツ姿。
髪は綺麗にまとめられている。
でも。
その顔には、ひどく疲れた色があった。
女性は席へ座る。
そして。
開口一番、こう言った。
「私、多分」
少し笑う。
「怒るの下手なんです」
レンは目を瞬かせる。
女性は続けた。
「というか、“怒っちゃダメ”だと思って生きてきた」
アカネが静かに珈琲を置く。
女性はカップを見つめながら話し始めた。
「小さい頃から、怒ると嫌われたんです」
「わがままだって言われて」
「空気悪くするなって言われて」
苦笑する。
「だから、笑うようになりました」
その笑い方が。
ひどく癖になっている感じだった。
レンは静かに聞いている。
女性は続ける。
「会社でも」
「恋人にも」
「家族にも」
「ずっと、“いい人”やってたんです」
雨音が静かに響く。
女性は窓の外を見る。
「でも最近」
指先が、小さく震える。
「感情戻ってきてから、急にイライラするんです」
「電車でぶつかられただけで腹立つし」
「上司の言葉に傷つくし」
「友達との会話でも、“なんでそんなこと言うの”って思っちゃう」
その声には、少し怯えが混じっていた。
「私、性格悪くなったんですかね」
レンは小さく息を吐く。
違う。
多分この人は、“怒り”を感じ始めただけだ。
今まで閉じ込めていた感情を。
その時。
雪斗がぽつりと言う。
「怒りって、結構大事だからね」
女性が顔を上げる。
雪斗は続けた。
「“嫌だ”って感情だから」
「自分守るための」
店内が静まる。
女性は少し戸惑った顔をする。
雪斗は苦笑する。
「怒れない人って」
「自分傷ついてることにも気づけなくなるんだよ」
その言葉で。
女性の目が、少し揺れた。
多分。
今まで何度も傷ついていた。
でも。
“怒っちゃダメ”だったから。
全部、“自分が悪い”へ変えてきた。
女性は、小さく呟く。
「……私」
視線が落ちる。
「ほんとは、ずっと嫌だったのかもしれない」
雨音だけが響く。
その時。
アカネが静かに言った。
「怒るって、誰かを傷つけるためだけの感情じゃないわ」
女性が顔を上げる。
アカネは続けた。
「“そこ入ってこないで”って、自分の境界線引く感情でもあるから」
その瞬間。
女性の目から、静かに涙が零れた。
怒れなかった人。
ずっと、“自分より他人を優先する”ことで生きてきた人。
その人が今。
初めて、“自分の感情”へ触れ始めていた。
読んでいただきありがとうございます!
今回は、“怒れなかった人”の物語でした。
感情を取り戻すということは、“優しさの裏で押し殺していた本音”とも向き合うことなのかもしれません。




