第百五話 はじめての涙
感情は、“我慢した分だけ消える”わけじゃない。
外へ出せなかった悲しみは、ずっと胸の奥へ残り続ける。
店の中には、静かなジャズが流れていた。
制服姿の少女は、ティッシュ箱を見つめたまま動かない。
まるで。
それを使う資格が、自分にはないみたいに。
レンは、その表情を静かに見ていた。
少女は小さく呟く。
「……でも」
声が掠れる。
「猫が死んだくらいで、こんな苦しいのおかしいですよね」
その瞬間。
アカネの目が少し細くなる。
でも。
怒ってはいなかった。
むしろ。
“その考え方を、何度も見てきた人”の顔だった。
アカネは静かに言う。
「誰が決めたの」
少女が顔を上げる。
アカネは続けた。
「“それくらいで悲しむな”って」
少女は言葉に詰まる。
多分。
親。
先生。
周囲の大人。
ずっとそうやって、“感情の大きさ”を決められてきたのだ。
少女は小さく笑う。
でも。
その笑いは今にも壊れそうだった。
「だって、もっと大変な人いるし」
「家族亡くした人とか」
「病気の人とか」
「猫くらいで泣くの、変じゃないですか」
レンの胸が、静かに痛む。
昔の自分もそうだった。
“自分の苦しみなんか、大したことない”って。
だから。
ちゃんと痛がれなかった。
その時。
雪斗が、珍しく口を開く。
「比較した瞬間、感情って壊れるんだよ」
少女が目を瞬かせる。
雪斗は珈琲を見ながら続けた。
「悲しい時に」
“もっと不幸な人いるし”って考え始めると」
「人間、そのうち自分の感情わかんなくなる」
店内が静まる。
少女の指先が、小さく震えていた。
雪斗は少し苦笑する。
「猫、好きだったんでしょ」
少女は、ゆっくり頷く。
「……毎日会ってました」
「学校行く前に」
「名前も勝手につけてて」
少しだけ笑う。
「ミルクって」
その瞬間。
少女の声が、少し崩れた。
「……でも、急にいなくなって」
「道で、動かなくなってて」
息が震える。
「なのに私」
「その時、何も感じなくて」
指が、ぎゅっと握られる。
「最低なんです」
その瞬間。
ぽたり、と音がした。
少女は目を見開く。
頬が濡れている。
自分でも、理解できていない顔だった。
ぽたり。
また一滴。
少女は震える声で呟く。
「……あれ」
レンの胸が熱くなる。
少女は、涙へ触れる。
まるで。
初めて見るものみたいに。
そして。
次の瞬間。
堰を切ったみたいに泣き始めた。
声を押し殺しながら。
何年分もの涙を流すみたいに。
「会いたかった……っ」
「もっと撫でたかった……っ」
「寒かったかなって……」
「痛かったかなって……っ」
店の中へ、少女の泣き声が響く。
レンは静かに目を伏せる。
悲しみって、多分。
“泣いた瞬間”に初めて、自分の中へ居場所を作れるのだ。
アカネは、何も言わなかった。
ただ。
静かにティッシュ箱を、少女の近くへ寄せた。
読んでいただきありがとうございます!
今回は、“泣き方を知らなかった少女”が初めて涙を流しました!




