第百三話 愛情の置き場所
愛情は、消えない。
ただ、“向ける場所”を失って、胸の中へ残り続ける。
高瀬の涙は、なかなか止まらなかった。
黒い店の中。
静かなジャズ。
珈琲の湯気。
その空間で。
男は、何年分もの涙を流していた。
レンは、ただ黙って座っている。
無理に励ます気にはなれなかった。
多分これは。
誰かに慰められる時間じゃない。
“ちゃんと悲しむ時間”だった。
高瀬は涙を拭いながら、小さく笑う。
「情けないですね」
「娘の前じゃ、全然泣けなかったのに」
アカネが静かに言う。
「親って、“しっかりしなきゃ”って思いすぎるから」
高瀬は苦笑した。
「……そうかもしれません」
少し沈黙。
そして。
高瀬はぽつりと呟く。
「でも、困ってるんです」
レンが顔を上げる。
高瀬は続けた。
「今さら感情戻ってきても」
「どうしたらいいかわからない」
その言葉は、とてもリアルだった。
感情を取り戻すことは、“幸せになる”と同じじゃない。
むしろ。
痛みも戻ってくる。
喪失も。
後悔も。
全部。
高瀬は、震える声で言った。
「妻のこと思い出すたび苦しくて」
「家に帰るだけで胸が痛くなるんです」
レンは静かに聞いている。
高瀬は続けた。
「でも」
少し笑う。
「忘れたくないとも思ってる」
その瞬間。
レンの胸が静かに揺れる。
苦しい。
でも、消したくない。
それはきっと、“愛した記憶”だからだ。
その時。
雪斗が珍しく口を開いた。
「愛情ってさ」
全員が顔を向ける。
雪斗は珈琲を見つめたまま続けた。
「消えないんだよな」
静かな声。
「相手がいなくなっても」
「終わった恋でも」
「壊れた関係でも」
少し苦笑する。
「置き場所なくなるだけで」
その言葉で。
店内が静かになる。
レンは、美月を思い出していた。
失いかけた恋。
でも。
消えてはいなかった。
高瀬は小さく呟く。
「……置き場所」
雪斗は頷く。
「だから苦しいんだと思う」
「向ける先がなくなるから」
高瀬は、しばらく黙っていた。
やがて。
震える声で言う。
「じゃあ、どうしたらいいんですかね」
雪斗は少し考える。
そして。
静かに笑った。
「抱えたまま生きるしかないんじゃない?」
高瀬は苦笑する。
「雑ですね」
「うん、雑」
雪斗も笑う。
でも。
その笑いは、不思議と優しかった。
アカネが静かに付け加える。
「でも、“消す”よりは多分マシ」
高瀬は目を伏せる。
そして。
小さく頷いた。
「……そうですね」
その時。
高瀬のスマートフォンが震える。
画面を見る。
娘からだった。
【パパ、今日早く帰れる?】
高瀬の目が、少しだけ揺れる。
その瞬間。
レンは気づく。
愛情って、多分。
“失った相手だけ”へ向かうものじゃない。
残された誰かへ、繋がっていくものでもある。
高瀬は、小さく笑った。
涙の跡が残る顔で。
でも。
今度は、ちゃんと前を向いていた。
読んでいただきありがとうございます!
今回は、“感情を取り戻したあと、人はどう生きるのか”へ深く触れ始めました!




