第百二話 泣けなかった男
感情は、“その場ですぐ感じられる”とは限らない。
人は時々、何年も遅れて泣く。
黒い店には、朝の光が静かに差し込んでいた。
珈琲の香り。
古い棚。
少し掠れたジャズ。
いつもの空間。
でも。
どこか空気が違う。
この店にも、“感情”が戻ってきていた。
レンが扉を開けると。
カウンターには、アカネと雪斗。
そして。
一人の男が座っていた。
三十代後半くらい。
スーツ姿。
整った髪。
でも。
目だけが、妙に死んでいた。
男はレンを見る。
少し会釈した。
「……どうも」
声は穏やかだった。
でも。
感情の輪郭が薄い。
レンは直感する。
この人は、“長く感情を閉じてきた人”だ。
アカネが言う。
「依頼人。名前は高瀬」
高瀬は小さく笑った。
「まあ、依頼っていうか」
少し言葉を探す。
「……確認、ですかね」
レンは椅子へ座る。
高瀬は静かに珈琲を見つめていた。
そして。
ぽつりと呟く。
「俺、妻が死んだ時」
店内が静まる。
高瀬は続けた。
「泣けなかったんです」
レンは息を呑む。
高瀬の目は、ずっと遠くを見ていた。
「周りはみんな泣いてて」
「娘も泣いてて」
「なのに、俺だけ何も感じなくて」
少し笑う。
乾いた笑いだった。
「最低ですよね」
レンは何も言えなかった。
高瀬は続ける。
「昔なら、多分泣けたんです」
「でも仕事して」
「家庭守って」
「感情なんか後回しにしてるうちに」
「いつの間にか、泣き方忘れてた」
その言葉が、店へ静かに沈む。
アカネは黙って聞いていた。
高瀬は苦しそうに息を吐く。
「で、最近」
手が少し震える。
「感情戻り始めたじゃないですか」
レンは目を伏せる。
高瀬は続けた。
「昨日、娘が寝たあと」
「妻のマグカップ見つけて」
声が掠れる。
「……急に、全部来たんです」
その瞬間。
高瀬の目から、涙が零れ落ちた。
止まらない。
何年分も堰き止めていたみたいに。
高瀬は泣きながら笑う。
「今さらなんですよ」
「葬式の時も泣けなかったのに」
「なんで今なんだよって……」
レンの胸が、静かに痛む。
高瀬は、ずっと感情を閉じ込めて生きてきた。
壊れないために。
前へ進むために。
でも。
感情は消えてなかった。
ちゃんと、残っていた。
高瀬は涙を拭いながら言う。
「俺、妻のこと」
「ちゃんと愛してたんですね」
その声は、ひどく不器用だった。
でも。
だからこそ、本物だった。
その時。
アカネが静かに珈琲を置く。
そして。
小さく言った。
「遅い涙も、ちゃんと涙よ」
高瀬は、少し驚いた顔をする。
アカネは続けた。
「感情って、時々すごく遅れて来るから」
店内は静かだった。
でも。
その静けさは、もう空っぽじゃなかった。
読んでいただきありがとうございます!
“感情が戻った街”での、新しい依頼編が始まりました。
ここからは、“取り戻した感情とどう生きるか”がテーマになっていきます!




