『三月の決算(ファイナル・チェック)』
二〇四一年三月。
江戸川競艇場は、冷たい春の雨に煙っていた。
大宮機艇教習所、第百三十五期プロ認定最終試験。この灰色の水面で行われる三分間のレースを突破すれば、佐伯健太は「三十六歳の新人レーサー」として、競艇界の歴史にその名を刻むことになる。
だが、出走を控えたピットの空気は、雨の重さ以上に沈んでいた。
「佐伯、気をつけろ。本校(滋賀)の理事会が、お前の卒業を認めないよう試験官に圧力をかけている。……お前の存在が、彼らが作り上げた『若きエリートの育成モデル』という商品価値を傷つけるからだ」
石原校長が、いつになく険しい表情で健太に告げた。足元では愛犬の『鉄』が、主人の殺気を敏感に察知し、本校から来た試験官たちに向けて低く、長く唸り声を上げている。
「……理由は『マブイの出力不足』と『年齢による反射神経の欠如』。……経理部の部長が退職を引き止める時に並べた減点方式の理屈と同じですね」
健太は、一年間の激闘でボロボロになったレーシングスーツのジッパーを、首元まで引き上げた。眼鏡を外し、ケースに収める。
剥き出しになった眼光が、雨粒さえも切り裂くような鋭さを帯びた。
「……ですが校長。帳簿を操作して黒字を赤字に見せかけるような真似は、私が一番嫌うところです。実力という名の『キャッシュフロー』で、奴らの口を塞いでやりますよ」
試験官から下された条件は、露骨な排除を目的とした過酷なものだった。
『全六隻による模擬レース。ただし、佐伯研究生に限っては、一着以外は卒業資格を認めない』
それは事実上の引導だった。出走するのは健太、カイ、そして本校が刺客として送り込んだ、最新鋭のマブイ出力を誇る特待生たち三名。
「佐伯さん……。俺が外側をブロックして、道を空けます。あんたは最短距離を行け!」
隣のレーンで艇を寄せてきたカイが、ヘルメット越しに必死の形相で囁く。だが、健太は微かに首を振った。
「……必要ない、カイ。これは俺の『人生の帳簿』だ。他人の貸しで作る勝利など、ケジメにならん。お前は自分のベストを尽くせ」
大時計の針が動く。
スタートの咆哮とともに、六隻のボートが爆音を上げて飛び出した。
予想通り、本校の受験生たちが露骨な「佐伯包囲網」を敷く。左右から挟み込み、健太の進路を物理的に塞ぐ。さらに彼らが意図的に起こす強力な「磁気波」が、健太の旧式艇のシステムを直接攻撃し、出力を無理やり減衰させていく。
(……マブイ出力、二〇%ダウン。……想定内だ。これしき、繁忙期のシステムダウンに比べれば計算の範疇だ)
荒れ狂う江戸川の波。刺客たちが意図的に残していく複雑な「引き波」が、健太のボートを転覆の淵へと誘う。
観客席の試験官たちが、健太の失速を確信して鼻で笑ったその時。
健太は、一年間の孤独な特訓と、経理部時代の不眠不休の精神力を融合させた、独自の点火システムを起動させた。
「……これこそが、俺が積み上げてきた『時間』の全容だ」
『からくり・オーバーレブ:残業代』
経理マン時代、深夜三時のオフィスで、たった一円のズレを見つけるために数千枚の領収書と対峙したあの粘り強さ。その精神的な圧力を、物理的なマブイの流量制御へと無理やり変換する。
瞬間、三,〇〇〇のコアマブイが真っ赤に燃え上がり、臨界点を超えて脈動した。
出力が倍加し、エンジンの排気口から青白い火花が飛び散る。刺客たちのボートが、健太が放つ異常なまでの「熱」と「殺気」に気圧され、一瞬だけ進路に綻びが生じた。
その刹那。
健太は〇・一ミリの隙間――波と波が激突してエネルギーが相殺される一瞬の「真空地帯」へと、ボートを滑り込ませた。
「サラリーマンを、なめるなよ……ッ!!」
第一ターンマーク。健太は減速を投げ捨てた。
強引な旋回ではない。江戸川の「うねり」を、あたかも自分の利益(利益確定)へと変換するような、流麗かつ完璧なライン取り。
左右の刺客を自身の引き波に呑み込ませ、健太のボートは文字通り、水面を飛翔した。
ゴールラインを駆け抜けたのは、誰よりも速く、誰よりも泥臭く、そして誰よりも正確に走り続けた三十六歳の男だった。
タイムは教習所記録を塗り替える驚異的な数値。ピットに戻ると、そこには葬式のような静寂が広がっていた。
「出力不足」という理屈も、「反射神経の衰え」という偏見も、健太が見せつけた「波の支配」という圧倒的な現実の前には、無意味な紙屑に過ぎなかった。
石原校長が、水浸しの桟橋を歩み寄り、健太の肩を無言で、しかし力強く叩いた。
鉄が健太の足元に擦り寄り、誇らしげに雨の空に向かって咆哮を上げる。
「……おめでとう、佐伯。……いや、佐伯健太レーサー」
石原の手から渡されたのは、雨に濡れても輝きを失わない、一通のプロライセンスだ。
そこには、彼が十数年以上もの間、平穏な生活のために隠し続けてきた名前が、誇らしげに印字されていた。
「……ありがとうございます、校長。……ようやく、次の現場へ行く準備が整いました」
健太は、雨と飛沫で濡れた顔で、小さく、しかし清々しく笑った。
かつての湾岸の亡霊でもなく、しがない経理の歯車でもない。
二〇四一年三月。
江戸川の濁流が生んだ「史上最年長の狂犬」が、プロという名の弱肉強食の大海原へ、その第一歩を踏み出した。
佐伯健太の「本決算」は、ここからが始まりなのだ。




