ハヤブサの産声
第10話 ハヤブサの産声
二〇四一年、三月。卒業式の喧騒が去り、夕闇が迫る『関東機艇操縦士養成校・江戸川分校』のピットに、佐伯健太は一人立っていた。
胸ポケットには、プラスチックの硬い感触――念願のプロレーサー・ライセンスがある。それは、安定した月給と引き換えに手に入れた、世界で最も危険な「再就職票」だった。
健太の目の前には、石原校長から「卒業記念」として特別に譲り受けた一艇の機体があった。
機番:六一。
かつて江戸川の主と呼ばれた伝説のレーサーが愛用し、そのあまりの気性の荒さに「扱いきれる者がいない」と長年倉庫で眠っていた、からくり機艇の異端児である。
カウリングの側面に描かれた、鋭い眼光のハヤブサの模様が、傾きかけた西日に照らされて今にも羽ばたきそうな生命力を放っている。
「……今日から、お前が俺の相棒か。長らく待たせたな」
健太は、マメだらけになった無骨な手で、ハヤブサの船体を優しく撫でた。
古びているとはいえ、石原の手によって完璧に手入れされた機体は、死んでいるどころか、新しい主を試すような冷たい静寂を湛えている。健太の経理マンとしての冷徹な計算によれば、この機体のスラスト伝達機構は、調整次第で理論上の限界値を突破する――「莫大な隠し資産」を秘めていた。
「そいつは気性が荒いぞ、佐伯。生半可な気持ちで跨れば、一瞬で水面に叩き落とされる」
背後から、鉄を連れた石原校長が歩み寄ってきた。
「低出力の機関でも、限界まで絞り出すために設計された超ピーキーな機体だ。……お前の、あの狂気じみた『流量制御』でなきゃ、一分と経たずにオーバーヒートしてスクラップだ。お前にしか渡せない代物だよ」
「……過酷な現場には慣れています。三十六歳で新人に戻る男には、これくらいのアク(個性)があるほうが丁度いい」
健太はそう言うと、傍らに置いた古い工具箱を開けた。
中にあるのは、会社員時代、誰にも知られずに夜な夜な研磨し続けてきた『三気筒・水冷式からくり点火プラグ』。かつて「雷神」と呼ばれた頃の情熱と、一円の狂いも許さない経理マンの緻密さが結実した、世界に一つだけの自作品だ。
健太は迷いのない手つきで、六一号機の心臓部へとそれを組み込んだ。
カチッ。
金属同士が完璧に噛み合う、官能的な手応え。
健太がスターターを引き、静かに、しかし力強くスパークさせた。
次の瞬間、ハヤブサのエンジンが、冬の眠りを引き裂くような爆発的な咆哮を上げた!
不規則な重低音が、瞬時に一点の澄んだ旋律へと収束していく。それはただの機械音ではない。自由を求め、空を切り裂こうとする鳥の叫びそのものだった。
「……いい声だ。……サラリーマンの愚痴や、責任転嫁の言い訳を聞かされるより、ずっと聞き応えがある」
健太は胸ポケットから眼鏡を外し、ケースに仕舞い込んだ。サラリーマンとしての過去を捨てる儀式だ。ヘルメットを被り、プロテクターの首元を締め上げる。コンタクトレンズの瞳に、水面の気配と風の揺らぎが、脳内の「リアルタイム帳簿」へ直接書き込まれていく。
目つきが「元総長」の冷徹な鋭さに変わり、Tシャツの袖から覗く腕の筋肉が、機体の猛烈な振動に耐えるべく、岩のように硬く引き締まった。
健太はハヤブサをゆっくりと水面へと滑り出させた。
二〇四一年、春。三十六歳になった新人レーサーと、伝説の六一号機。
「史上最年長の狂犬」と「孤独なハヤブサ」という奇妙なコンビが、ついにプロの世界――東京支部所属のルーキーとして、平和島、多摩川、そして江戸川を震撼させる日々が幕を開ける。
「見てろよ、佐藤。……俺の本当の『仕事』は、これからだ」
健太はスロットルを力強く叩き込んだ!
ハヤブサが水面を猛然と蹴り、白い飛沫の翼を広げる。
第一ターンマーク。健太は「ハヤブサ」の特性を瞬時に掌握していた。この機体は、波を曲がるのではない。水面を「斬る」のだ!
全速旋回!
健太の身体が大きく宙に浮き、ボートの外側へとはみ出す。だが、ハヤブサの鋭いハルが水面を深く抉り、強烈な遠心力をそのまま爆発的な推進力へと還元していく!
白い飛沫が西日に反射し、水面に巨大な虹を描いた。
その光景は、教習所の窓から見ていたカイやヒロキ、そして次世代を担う若者たちの目に、決して消えることのない「伝説の焼き印」として深く刻み込まれた。
「行ったか。……あいつ、俺が教えてねえ技まで使いやがって」
桟橋でそれを見ていた石原校長が、満足げに葉巻をくゆらせた。
足元の鉄が、誇らしげに一度だけ短く吠える。
「……ああ。あれは教わるもんじゃねえ。……死線の上で、自分で書き込む帳簿だからな」
虹の向こう側へ消えていくハヤブサの背中。
佐伯健太。
一円の誤差も許さない男が今、不確定要素だらけのプロの世界を、その計算高い狂気で支配しに向かう。
彼が次に立ち寄るオフィスは、もはや横浜のビルではない。
荒れ狂う水面の上、時速八十キロの暴風が吹き荒れるピットだ。
史上最年長の「新人」による、壮大な逆襲の第一期決算が、今ここに始まった。




