伏魔殿の洗礼
第11話 伏魔殿の洗礼
二〇四一年、四月。
東京支部事務所。江戸川の濁流を間近に臨むその建物は、数多のプロレーサーたちが抱く野心と、彼らが操る最新鋭推進器が放つ強烈なスラストの残滓が渦巻く、一種の聖域だ。
佐伯健太は、地味なグレーのビジネススーツに身を包み、受付のカウンターに立った。それは十年間、彼が「自分を殺すための鎧」として着続けてきた経理部の正装である。
「……本日よりお世話になります。新人の佐伯健太です」
ライセンスを提示した瞬間、ロビーに漂っていた空気が、鋭利な刃物で裂かれたように一変した。
「……へぇ。例の『おじさん』って、あんたのこと?」
長い脚を組み、ソファにふんぞり返っていたのは、霧島麗華(二十三歳)だった。モデルと見紛う美貌に、全てを見下すような高圧的な視線。その全身からは、スラスト出力二万を超える最新艇をねじ伏せる圧倒的な圧が、物理的な重圧となって健太の肩にのしかかる。
「三十六歳でプロデビューなんて、会社のリストラ対策にでもなればいいけど。ここは将棋盤の上と同じ。あなたみたいな『歩』は、一歩も進めずに食い散らかされるのがオチよ」
「……ご指導、痛み入ります。ですが霧島さん。将棋の世界では、歩も敵陣に入れば『金』に成ります。私は一歩ずつ、着実に決算をつけに来ただけですよ」
健太が胸ポケットから取り出した眼鏡をかけ直し、淡々と答える。その横を、派手な金髪を揺らした火野龍也(二十一歳)が、肩を強くぶつけながら通り過ぎた。
「ケッ、理屈くせぇんだよオッサン! あんたの伝説なんて化石の話だ。今の水面は、俺たち『ベクター世代』の領土なんだよ!」
さらに奥からは、巨大な壁のような巨漢――黒澤剛が、顔の古傷を歪めて笑いながら現れた。
「龍也、よせ。……佐伯、お前のツラ、どっかで見たと思ってたが……やはり厚木の『雷神』か。随分と丸くなったじゃねえか。あの頃の狂犬が、今じゃスーツのシロアリか?」
「……黒澤さん。お久しぶりです。今はただの新人、佐伯です。過去の帳簿は、すべてシュレッダーにかけてきました」
黒澤は健太のかつての宿敵の一人だ。その傍らで、タブレットを冷徹に叩きながら視線を送る男がいた。白石悠真、二十五歳。
「佐伯健太。初期スラスト出力、わずか三千。統計上、一年以内の引退確率は八十七%。……あなたの存在はデータ上のノイズだ。早めに排除させてもらいますよ」
そして、ロビーの中央。
銀縁眼鏡の奥で、氷のような瞳をした貴公子――西貴斗が静かに立ち上がった。東京支部の若手筆頭であり、名門レーサー一家の血を引くサラブレッド。
「血統のない者が、あのハヤブサ(六一号機)を預かるとは。石原校長もいよいよ焼きが回ったらしい。……佐伯さん、僕の『引き波』を拝む光栄を、デビュー戦で与えてあげましょう。身の程を知るいい機会だ」
プロとしての生活が始まった。
同じ支部の同期として合格した大道寺カイだけが、健太の隣でホッとしたような、それでいて怯えたような顔を見せた。
「佐伯さん……相変わらず四面楚歌っすね。でも、あの西って野郎、マジでヤバイっすよ。マシンの質が僕らとは根本的に違う。バケモンです」
「……ああ。だがカイ。経理部で、十億円の使途不明金を見つけるために全伝票を洗い直すよりは、まだマシな状況だ」
健太は、狭い宿舎の部屋で愛機『ハヤブサ』のスペック表を広げた。
二万、三万と並ぶ怪物たちのスラスト数値。対する健太は基礎出力三千。ハヤブサのからくり調整込みでも一万八千が限界だ。
だが、健太の指先は、すでに西や麗華の「操縦の癖」を、過去三年分の全レースデータから弾き出し、脳内の貸借対照表に書き込んでいた。
(……西はパワーに頼る分、ターン出口のコンマゼロ五秒に、遠心力による『過剰推力』の隙が出る。麗華は美しいラインを重視しすぎて、想定外の荒波への対応コストが高い)
健太は胸ポケットに眼鏡を収め、サポーターで隠した腕の刺青を、じっと見つめた。
サラリーマンとして死んでいた十年間。それは無駄な時間ではなかった。その間に溜め込んだ「執念」という名の複利が、今、六一号機のピストンを叩く準備を整えている。
「……サラリーマンを、舐めるなよ」
翌朝。
平和島競艇場。プロデビュー初戦。
東京湾からの潮が満ち、狭い水面に独特のうねりが立ち始める。
ピットに並ぶボートの中でも、健太の『ハヤブサ』は異彩を放っていた。最新のAI制御に頼らず、磨き上げられた機械式からくりプラグと、健太の繊細な指先によるアナログ制御。
出走表の第一コースには、圧倒的人気の『西 貴斗』。
そして第六コース、大外には『佐伯 健太』。
東京支部の「怪物」と、一見どこにでもいる「おじさん」が、デビュー初戦から激突する。
「おっさん、大外から指を咥えて見てな」
火野龍也が横でエンジンを吹かす。
健太は何も言わず、ヘルメットのシールドを下ろした。コンタクトレンズの瞳に、水面の「数値」が鮮明に浮かび上がる。
潮位の変化、風速三メートル、水温十七度。
すべての変数を、今ここで「勝利」という一つの解に集約させる。
大時計の針が動き出す。
三十六歳の新人が、プロという名の巨大な暴力が渦巻く大海原へ、一円の狂いもない全速力で飛び出した。
平和島の第一ターンマーク。
そこが、佐伯健太の「プロとしての最初の決算日」となる。




