平和島の刺客
第12話 平和島の刺客
二〇四一年、五月。平和島競艇場。
東京支部所属、佐伯健太のデビュー節、初日。メインの第十二レース。
「東のメッカ」と称されるこの水面は、周囲を囲む巨大なビル群から吹き下ろす「ビル風」が複雑な旋回気流を生み出し、海水特有の重く粘り気のある飛沫が容赦なくレーサーの視界を奪う。
ピット離れの合図とともに、六一号機『ハヤブサ』が静かに、滑らかに水面へその身を投じた。
第一コースには、圧倒的な推進力を誇る貴公子、西貴斗。最新鋭『リニア・ベクター』を搭載した純白の艇が、圧倒的な威圧感を放ちながら王者の座に鎮座している。
対する健太は、新人の宿命である大外第六コース。緑のカポックを纏い、胸ポケットに眼鏡を収めてヘルメットを被る。会社員時代の過去を脱ぎ捨てる覚悟のスイッチだ。ヘルメットの奥、コンタクトレンズの瞳にコンマ一ミリの水面数値が浮かび上がる。
(……風速四メートル、北北西。潮位は満潮へ向かう上げ潮。第一マークの振り幅は三十七メートル。……全ての変数は、想定内のレンジに収まっている)
健太はヘルメットの暗がりの中で、経理部時代の年度末決算にも似た極限の集中力で思考の演算を開始した。
一コースの西は、その強力なスラスト出力で強引に「逃げ」を打つだろう。だが、平和島の一マークは全国屈指の狭さを誇る。過剰なパワー(過剰投資)は、この狭い旋回半径においては、必ずターンの出口で遠心力という名の「不良債権」を生む。
「平民の走りを見学させてもらうよ、佐伯さん。プロの速度域では、あなたの理屈など風に消える」
通信から西の余裕たっぷりの声が届く。健太は答えず、スロットルに添えた指先をコンマ一ミリ単位で微調整した。それは、一円の過不足も許さない決算書を作成してきた、職人の指先だった。
大時計の針が頂点を回り、光を放った。
「……行け、ハヤブサ。回収開始だ」
全艇、正常なスタート。西の一号艇がコンマゼロ一のトップスタートを切り、異次元のスラスト加速で第一マークへ突っ込む。
だが、健太の六号艇も後れは取らない。外側から被せて「まくり」を狙う派手な動きは捨てた。健太が狙うのは、一瞬だけ現れる最短距離の「差し」の角度。
第一マーク。西が旋回に入る。
スラスト出力三万二千という超高出力。強引にパワーで水をねじ伏せようとする一号艇。しかし、平和島特有のビル風が西の艇の底を掬い上げ、狭いコーナーでの過剰な遠心力が、西の牙を彼自身に向けさせた。
「……くっ、外に流れる……!? なぜだ、出力は完璧なはずだ!」
西の驚愕。パワーが仇となり、一号艇の懐に広大な「空き地」が露呈した。
「……予算超過だ、西くん。お前のターンは、コストに見合った利益(速度)を生んでいない」
健太が呟くのと同時に、ハヤブサの側面に描かれた鳥の模様が水面スレスレで跳ねた。
健太はスラストの流量を極限まで絞り、ボートの挙動を完全に制御。荒れ狂う引き波の谷間に、まるで吸い込まれるように潜り込んだ。
「サラリーマンを、舐めるなよ……ッ!!」
最内を突く「六コースからの差し」!
平和島特有の、右斜めに広がるバックストレッチ。安全策として斜行が厳禁されているこの聖域のゾーンで、健太のハヤブサは誰にも邪魔されることなく、直線で西の最新鋭艇を捉えた。
「な、何っ……!? なぜ出力三千クラスのからくり艇で、僕の加速に付いてこれる!」
並走する一号艇から、西の悲鳴に近い声が響く。
「……加速じゃない。お前が勝手に自滅し、『赤字』を出しただけだ。俺はただ、一円も捨てずに進んでいる」
健太の精密なスロットルワークは、ビル風の空気抵抗さえも計算に入れ、最も効率的なベクトルで艇を前進させていた。
第二マーク。焦った西が、プライドを捨てて強引に内側へ切り込む。だが、健太はその軌道を既に「監査」済みだった。
波を殺し、最短の円を描く。
ゴールラインを駆け抜けたのは、大外からすべてを飲み込み、静寂を切り裂いた緑のカポック。
六号艇、佐伯健太。
場内の電光掲示板に、「6-1-2」の数字が鮮烈に灯った。
平和島のスタンドが、地鳴りのようなどよめきに包まれる。
万舟券。
デビュー戦にして、史上最年長のルーキーが、数万人の予想を裏切る特大の配当を叩き出した瞬間だった。
ピットに戻った健太を、東京支部の面々が愕然とした表情で迎える。
「……信じられない。私のデータでは、あなたの勝率はコンマ四%以下だったはずよ。計算が……計算が合わないわ!」
霧島麗華が、震える手で端末を握りしめ、健太を戦慄の眼差しで見つめる。
西貴斗は、艇から降りることもできず、ただ自分の震える手を見つめていた。
「血統が……この僕が、平民の、あんな泥臭い差しに屈したというのか……?」
若者たちの動揺を尻目に、健太はヘルメットを脱ぎ、胸ポケットから地味な黒縁眼鏡を取り出して掛け直した。
夕方の青髭が少し浮いた、どこにでもいる「疲れたおじさんの貌」に戻って。
「……お疲れ様。西くん、良いレースだったよ。……さて、明日の出走表の精算に行かないとな。時間はコストだ」
その背中を、黒澤剛が愉快そうに、しかし畏怖を込めて叩いた。
「ガハハ! やりやがったな、雷神! 江戸川の泥の味が、平和島のビル風さえも黙らせたか!」
平和島競艇場。潮の香りが混じる夕暮れの中。
東京支部の序列と「常識」が、この日から確実に、そして残酷なまでに狂い始めた。
佐伯健太の「プロとしての本決算」は、まだ第一期に過ぎない。




