『真夏の決算・滋賀(エリート)vs 江戸川(野良犬)』
2040年7月。
江戸川の水面は、夏の強烈な日差しを浴びて、逃げ水のようにゆらめいていた。
関東校のピットには、滋賀本校から送り込まれた最新鋭の練習艇が並んでいる。
本校の生徒たちは、揃いの高級レーシングスーツに身を包み、まるで精密機械のような冷徹さでマブイの同期チェックを行っていた。
「……あれが噂の『35歳の研究生』か? 随分とくたびれたボートに乗ってるな」
本校の筆頭、**一之瀬 涼(19歳)**が、健太の艇を見て鼻で笑う。
一之瀬はコアマブイ12,000、外付25,000という、本校史上最高のスペックを誇る超エリートだ。
健太は、その嘲笑を柳に風と受け流し、黙々とペラ(プロペラ)を叩いていた。
暑さでTシャツは汗に濡れ、浮き出た肩の筋肉と、サポーターの下に覗く刺青の名残が、異様な威圧感を放っている。
「……一円の無駄もない、いいペラに仕上がった」
健太は、愛犬の鉄が差し出した(ように見える)レンチを受け取り、最後の調整を終えた。
レース:江戸川の「罠」
交流試合、第12レース。
本校のエリート3名、関東校から健太、カイ、ヒロキの3名。
滋賀の静かな淡水面で訓練を積んできた一之瀬たちにとって、潮の満ち引きと風が複雑に絡み合う江戸川は、本来「計算外」の戦場だ。
「スタート……展示!」
一之瀬のボートが、圧倒的な加速でスリットを駆け抜ける。
「速い……!」と関東校の面々が息を呑む。
だが、健太だけは、水面を走る「小さな泡」を見ていた。
(……満潮が近い。川底の『からくり』が、反転流を起こし始めている)
本番。大時計の針が動く。
全艇、正常なスタート。一之瀬がパワーで1マークを制圧しようと、全開の旋回体勢に入る。
「消えろ、おじさん! 理屈じゃ俺には勝てない!」
一之瀬のマブイが眩い光を放ち、水面を切り裂く。
だがその時、一之瀬のボートが、見えない何かに足を掬われたように大きく跳ねた。
江戸川名物、逆流する「死に波」だ。
「……計算ミスだ、若造。江戸川の帳簿には、『隠れ債務』があるんだよ」
健太がスロットルを僅かに刻む。
彼は一之瀬が跳ねるのを「予見」していた。
一之瀬のボートが流れた瞬間の、針の穴を通すような内側の隙間。
健太は、マブイの出力をあえて最低限に絞り、ボートを極限まで水面に「沈めた」。
波を越えるのではなく、波の『裏』を潜り抜ける。
関東校伝統・波殺しの一閃。
「なっ……インを……!? あの速度で!?」
一之瀬の驚愕を背に、健太は全マブイを再点火した。
「投資」のタイミングは、経理マンとしての直感が弾き出した「100万分の1秒」の誤差もない正解。
「サラリーマンを、なめるなよ……!」
真夏の爆音の中、健太の叫びが木霊する。
直線に出た瞬間、健太の旧式艇が、エリートたちの最新鋭艇を内側から置き去りにした。
決着、そして
ゴールラインをトップで駆け抜けたのは、関東校の「おじさん」だった。
観客席から、地鳴りのような歓声が上がる。
会社員時代、決して浴びることのなかった、賞賛の嵐。
ピットに戻った健太を、石原校長が鉄と一緒に迎えた。
「……おい佐伯。滋賀の連中の面目、丸潰れだぞ」
健太はヘルメットを脱ぎ、額の汗を拭った。
「……経理の基本ですよ。実地調査(現場)を怠る奴に、正しい決算は出せません」
敗北のショックで膝をつく一之瀬の前に、健太は歩み寄り、無骨な手を差し出した。
「……いいマブイだった。だが、ここは江戸川だ。……次にやるときは、もっと『泥』を勉強してこい」
その日を境に、健太の名は教習所内だけでなく、プロの競艇界隈にも「江戸川の狂犬」として知れ渡ることになる。




