『最後の挑戦者(ラスト・チャレンジャー)』
「おい、見たかよ。あの経理のおじさん、本当に会社辞めてきたらしいぜ」
「マジかよ……三十五だろ? 卒業しても、新人レーサーとしては賞味期限切れじゃねえの。プロの世界はそんなに甘くないだろ」
二〇四〇年、春。大宮機艇教習所・関東校のピットには、朝から刺すような視線と異様な熱気が漂っていた。
史上最年長の研究生、佐伯健太。
彼がかつて湾岸を震え上がらせた「元総長」であることを知る者はまだ少ない。だが、「安定した職を捨て、不退転の覚悟でこの泥沼に飛び込んできた」という噂は、若者たちの間で瞬く間に広まっていた。
健太は、そんな外野の雑音を厚い防壁のように撥ね除け、黙々と自分の「からくり艇」を整備していた。
アイロンの効いた白シャツはもうない。今の彼は、油の染みた黒のTシャツ姿だ。逞しい腕には、かつて湾岸を制した証であるタトゥーを隠すためのサポーターが厳重に巻かれている。それは過去を封印し、現在という戦場に没頭するための儀式でもあった。
「……佐伯。注目されてるな。お前は今、この教習所で一番の『有名人』だ。……それも、変わり種としてのな」
石原校長が、愛犬の鉄を連れて現れた。鉄は健太の足元に鎮座し、まるで無礼な野次馬を追い払うボディーガードのように周囲を低く唸りながら睨みつけている。
「……数字を合わせるのに、観客の拍手は不要です。校長、本日のメニューを」
「いい面構えだ。……よし。今日は滋賀の本校からエリート指導員どもが視察に来ている。からくり技術を軽視するマブイ信者どもの前で、江戸川の『波の殺し方』を見せてやれ」
この日の訓練科目は、高出力マブイによる「超高速旋回」。
それは、本校が推奨する「出力の暴力」で強引に水面をねじ伏せる旋回法であり、出力の低い旧式艇を操る健太にとっては、最も不利な条件だった。
「佐伯さん、悪いっすけど、ここは俺のステージだ。時代遅れの骨董品じゃ、俺の後跡すら踏めないぜ」
カイが、最新のマブイ変換器を搭載した艇で水面を滑る。
コアマブイ一〇,〇〇〇。圧倒的なエネルギーの奔流。カイのボートは、水面を跳ねる石のように鋭く、そして速く、第一マークを最短距離で切り裂いていく。
岸壁で見ていた本校の視察員たちが「素晴らしい。これが次世代のスタンダードだ」と満足げに頷く。
対する健太のコアマブイは、依然として初期値に近い三,〇〇〇。
だが、健太の瞳は、カイやエリートたちが決して見ていない「水面の裏側」を凝視していた。
(……江戸川の風が、わずかに北に振れた。利根川の流入が重なり、底から湧き上がる『死に波』が来る)
健太はスロットルを緩めるどころか、全開にした。
周囲が「暴走か、あるいは自暴自棄か!?」と息を呑む。そのまま第一マークのコンクリート壁に激突するかに見えた、その刹那――。
「……『減価償却』、開始」
健太が低く呟くと、旧式エンジンの吸気口が、物理的な機構音を立てて複雑に変形した。
過剰なエネルギーをマブイで制御しようとせず、あえて「熱」として大気へ爆発的に放出する。その熱膨張の反動を利用し、ボートの船尾を無理やり水面に叩きつけたのだ。
バチンッ!
水面を叩く激しい破砕音。
健太のボートは、物理法則を無視した角度で急旋回を開始した。それは、パワーで曲がるのではない。江戸川が吐き出す「死に波」のうねりそのものを、ブレーキと旋回軸に変える――いわば、猛獣の牙を逆手に取って自分の武器にする、熟練の猟師のような技。
「……なにっ!? 今、波の上を『歩いた』のか!?」
視察員の一人が、持っていたタブレットを落としそうになりながら立ち上がった。
健太のボートは、荒波の中で一瞬だけ完全な静止を見せ、次の瞬間には、物理的な最短半径を維持したまま、爆発的な再加速で出口を抉り取っていた。
余剰なエネルギーを「ロス」として捨てることで、ボートという資産の価値(速度)を最適化する。経理マンとして磨き上げた「損を益に変える」思考が、水面で結実した瞬間だった。
ピットに戻った健太を待っていたのは、静寂。そして、隠しきれない畏怖を帯びた視線だった。
「佐伯さん……あんた、本当に何者なんだよ。あんなの、どの教本にも載ってねえぞ」
カイが、震える手でハンドルを握り直しながら問う。
健太は額の脂汗をサッと拭い、再び分厚い眼鏡をかけ直した。
「……ただの、元サラリーマンだ。……効率の悪い、無駄な動きの多いターンは、会社を潰す。それだけのことだ」
その時、本校から来た視察員の一人が、健太に歩み寄った。
「佐伯研究生。君のその技術……どこで学んだ? 本校のシミュレーターでも、今の旋回は『生存率〇%』と弾き出されたぞ」
健太は真っ直ぐに視察員を見つめ、短く答えた。
「……アスファルトの上の死線と、経理の帳簿の上の絶望から学びました。どちらも、ミスれば全てを失う点では同じです」
周囲の生徒たちがざわつく。
「おっさん、スゲー……」
「三十五歳からでも、あんな風になれるのか?」
それは、蔑みから「憧れ」へと変わった瞬間だった。
だがそれは同時に、失敗の許されない「史上最年長の期待の星」という、鉛のように重い重圧となって健太の肩にのしかかることを意味していた。
「……さて。鉄、飯の時間だ。付き合え」
健太はあえて自分に向けられた熱狂を無視し、鉄と一緒に寮へと歩き出す。
その背中は、かつて数千人を率いた総長のそれであり、同時に、一分一秒の誤差も許さないプロのレーサーの貌になっていた。
江戸川の夕焼けが、彼の黒いTシャツを赤く染め上げる。
佐伯健太の「決算」は、まだ始まったばかりだ。




