『最後の挑戦者(ラスト・チャレンジャー)』
第7話 最後の挑戦者
「おい、見たかよ。あの経理のおじさん、本当に会社辞めてきたらしいぜ」
「マジかよ……三十五だろ? 卒業しても、新人レーサーとしては賞味期限切れじゃねえの。プロの世界はそんなに甘くないだろ」
二〇四〇年、春。『関東機艇操縦士養成校・江戸川分校』のピットには、朝から刺すような視線と異様な熱気が漂っていた。
史上最年長の教習生、佐伯健太。
彼がかつて湾岸を震え上がらせた「元総長」であることを知る者は、まだ誰もいない。だが、「安定した職を捨て、不退転の覚悟でこの泥沼に飛び込んできた」という噂は、若者たちの間で瞬く間に広まっていた。
健太はそんな外野の雑音を厚い防壁のように撥ね除け、黙々と自分の「からくり艇」を整備していた。
かつてのビジネスシャツ姿はもうない。今の彼は、油の染みた黒のTシャツ姿だ。逞しい腕には、過去の勲章――龍の刺青を隠すための黒いサポーターが厳重に巻かれている。それは過去を封印し、現在という戦場に没頭するための決意の儀式でもあった。
「……佐伯。注目されてるな。お前は今、この養成校で一番の『有名人』だ。……それも、物好きな変人としてのな」
石原校長が、愛犬の『鉄』を連れて現れた。鉄は健太の足元に鎮座し、まるで無礼な野次馬を追い払うボディーガードのように、周囲を低い唸り声で睨みつけている。
「……数字を合わせるのに、観客の拍手は不要です。校長、本日の訓練メニューを」
「いい面構えだ。……よし。今日は滋賀の本校からエリート指導員どもが視察に来ている。からくり技術を軽視する最新推進器信者どもの前で、江戸川の『波の殺し方』を見せてやれ」
この日の訓練科目は、高出力推進器による「超高速旋回」。
それは、本校が推奨する「出力の暴力」で強引に水面をねじ伏せる旋回法であり、出力の低い旧式からくり艇を操る健太にとっては、最も不利な条件だった。
「佐伯さん、悪いっすけど、ここは俺のステージだ。時代遅れの骨董品じゃ、俺の引き波すら踏めないぜ」
カイが、最新の『リニア・ベクター』を搭載した艇で水面を滑る。
スラスト出力、一万オーバー。圧倒的なエネルギーの奔流。カイのボートは、水面を跳ねる弾丸のように鋭く、そして速く、第一マークを最短距離で切り裂いていく。
岸壁で見ていた本校の視察員たちが「素晴らしい。これが次世代のスタンダードだ」と満足げに頷く。
対する健太のからくり艇の出力は、依然として初期値に近い三千クラス。
だが、健太のコンタクトレンズの瞳は、カイやエリートたちが決して見ていない「水面の裏側」を凝視していた。
(……江戸川の北風が、わずかに揺れた。上流からの激流に、東京湾からの上げ潮が重なる。底から湧き上がる『死に波』が来る)
健太はスロットルを緩めるどころか、全開に固定した。
「暴走か、あるいは自暴自棄か!?」と周囲が息を呑む。そのまま第一マークのコンクリート壁に激突するかに見えた、その刹那――。
「……『減価償却』、開始」
健太が低く呟くと、旧式エンジンの排気バルブが、ガギギッと強烈な機構音を立てて開放された。
過剰な推力を制御しようとせず、あえて「熱と圧力」として大気へ爆発的に放出する。その熱膨張の強烈な反動を利用し、ボートの船尾を無理やり水面に叩きつけたのだ。
バチンッ!
水面を叩く激しい破砕音。
健太のボートは、物理法則を無視した異常な角度で急旋回を開始した。それはパワーで曲がるのではない。江戸川が吐き出す「死に波」のうねりそのものを、ブレーキと旋回軸に変える――いわば、猛獣の牙を逆手に取って自分の武器にする、熟練の猟師のような変態的な技。
「……なにっ!? 今、波の頂点を『歩いた』のか!?」
視察員の一人が、持っていた端末を落としそうになりながら立ち上がった。
健太のボートは、荒波の中で一瞬だけ完全な静止を見せ、次の瞬間には、物理的な最短半径を維持したまま、爆発的な再加速でターン出口を抉り取っていた。
余剰なエネルギーを「ロス」として過敢に捨てることで、ボートという資産の価値(速度)を最適化する。経理マンとして磨き上げた「損を益に変える」減算思考が、水面で結実した瞬間だった。
ピットに戻った健太を待っていたのは、完全な静寂。そして、隠しきれない畏怖を帯びた視線だった。
「佐伯さん……あんた、本当に何者なんだよ。あんな乗り方、どの教本にも載ってねえぞ」
カイが、震える手でハンドルを握り直しながら問う。
健太は額の脂汗を静かに拭い、胸ポケットから分厚い眼鏡を取り出して掛け直した。
「……ただの、元サラリーマンだ。……効率の悪い、無駄な動きの多いターンは、会社を潰す。それだけのことだ」
その時、本校から来た視察員の一人が、引きつった顔で健太に歩み寄った。
「佐伯教習生。君のその技術……どこで学んだ? 本校の超高度シミュレーターですら、今の旋回は『生存率ゼロ%』と試算されたぞ」
健太は真っ直ぐに視察員を見つめ、短く答えた。
「……アスファルトの上の死線と、経理の帳簿の上の絶望から学びました。どちらも、コンマ一ミリのミスですべてを失う点では同じです」
周囲の若者たちが一斉にざわつく。
「おじさん、スゲー……」
「三十五歳からでも、あんな走りができるのか!?」
それは、蔑みから「憧れ」へと変わった瞬間だった。
だがそれは同時に、失敗の許されない「史上最年長の期待の星」という、鉛のように重い重圧となって健太の肩にのしかかることを意味していた。
「……さて。鉄、飯の時間だ。付き合え」
健太はあえて自分に向けられた熱狂を静かに無視し、鉄と一緒に潮風寮へと歩き出す。
その背中は、かつて数千人を率いた総長のそれであり、同時に、一分一秒の誤差も許さないプロのレーサーの貌になっていた。
江戸川の夕焼けが、彼の黒いTシャツとサポーターを真っ赤に染め上げる。
佐伯健太の「本決算」は、まだ始まったばかりだ。




