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からくり競艇〜サラリーマン、魂のフルスロットル〜  作者: 水前寺鯉太郎
サラリーマン編

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『決算、そして決別』

 二〇四〇年、春。横浜のオフィス街を包む空気は、どこまでも停滞していた。

 空調が吐き出す一定の低音と、無数のキーボードが刻む乾いたリズム。その中で、佐伯健太は機械の一部のように淡々と数字を処理していた。

「佐伯さん、この前の接待費の精算なんですけど……。あ、あと先月の仮払金の処理が一件漏れてまして」

「……ああ、そこに出しておいてくれ。後で精査しておく」

 後輩の佐藤が置いた伝票に目を落とす。かつての彼なら、一瞥しただけで計算の矛盾を指摘していただろう。だが今、健太の意識はワイシャツの下に刻まれた「勲章」――昨日の模擬レースで受けた、激しい衝撃の残滓である青あざ――に集中していた。

(……潮時か)

 健太は、長年愛用してきた、キーの文字が消えかかった電卓をデスクの引き出しに仕舞った。

 一円の狂いもなく数字を合わせる人生。それは彼にとって、人生を精算するための「贖罪」だった。二十年前、深夜の湾岸で散った仲間の命。その「負債」を背負ったまま、彼は爆音を捨て、静かな水面のような平穏を求めてこの場所に辿り着いた。数字を合わせ続けてさえいれば、過去の過ちもいつか消えてなくなる。そう信じていた。

 だが、江戸川の濁流、あの圧倒的な熱狂を一度知ってしまった以上、もうこの冷えた静寂には戻れない。

 健太は懐から、一通の白い封筒を取り出した。

「辞職願」

 昨夜、教習所の寮で、あの古びた「からくり点火プラグ」を磨きながら書き上げたものだ。

「佐伯さん? 顔色が悪いですよ。今日も江戸川までボートのイベントでも見に行くんですか?」

 佐藤が心配そうに覗き込んでくる。健太はわずかに口角を上げ、静かに首を振った。

「いや……もう『見る』のは終わりだ、佐藤。お前には苦労をかけたな」

 健太は立ち上がり、部長席の前へ歩み寄った。

 驚く部長のデスクに、迷いのない手つきで辞表を置く。その所作は、まるで負けの込んだ勝負に終止符を打つ、冷徹なギャンブラーのようだった。

「……佐伯君、これはどういうことだね?」

 部長の肥大した声がフロアに響き渡る。

「君がいなくなったら、うちの経理は誰が回すと思っているんだ。四半期末を控えて、このタイミングで勝手なことを……!」

 周囲の社員たちが手を止め、好奇と戸惑いの視線を送ってくる。かつての健太なら、ここで深く頭を下げ、組織の歯車として自分を殺していただろう。だが今の健太の背筋は、あの大宮機艇教習所のピットで見せたように、鉄の芯が通ったように真っ直ぐ伸びていた。

「……申し訳ありません。ですが、私の『流量マブイ』が、ここではもう抑えきれそうにないんです」

「何を言っているんだ君は! 狂ったか? 三十五歳にもなって、これからどうするつもりだ。再就職先でもあるのかね? この不景気に……」

 健太は無言で眼鏡を外し、胸ポケットに差し込んだ。

 その瞬間、オフィスにいた全員が、まるで物理的な衝撃を受けたかのように息を呑んだ。

 穏やかな経理マン・佐伯健太の顔から、遮光カーテンを剥ぎ取ったかのように「湾岸雷神会・元総長」の凄みが剥き出しになったからだ。眼鏡を外したその瞳は、獲物を仕留める直前の鷹のように鋭く、冷徹な熱を帯びていた。

「……レースに出ます。サラリーマンとしての決算ケジメは、すべてつけてきました」

 健太は最後にもう一度だけ、自分のデスクを一瞥した。

 私物は、カバンの中にある「からくり艇の部品」と「使い古したレンチ」。そして二十年間の贖罪という名の帳簿だけだ。

「……失礼します」

 引き止める上司の声も、佐藤の呆然とした視線も、背中で鮮やかに切り捨てた。

 エレベーターを降り、横浜の冷たい海風を全身に受けた瞬間、彼は喉元を締め付けていたネクタイを力強く引きちぎった。

 これからはもう、スーツで過去を隠す必要はない。

 二度と戻らない、泥沼と爆音、そして「一円のズレ」が命取りになる水面の世界へ。

 夕暮れの江戸川へと向かう電車の中で、窓の外に流れる横浜の夜景を見つめる。

 健太はスマホを開き、大宮機艇教習所の石原校長に、短く、しかし決意に満ちたメッセージを送った。

『本日付で、すべての事務処理を完了しました。今日から、ただの研究生として宜しくお願いします。』

 返信は、一分と経たずに届いた。

『鉄の最高級の餌を買ってこい。話はそれからだ。それと、明朝五時から全開走行オールアウトの特訓だ。寝坊したら即刻退寮させんぞ』

 健太の口角が、ほんの少しだけ上がった。

 それは、過去に支配された「死んだ笑顔」ではなく、未来の戦場を思い描く、生きている男のかおだった。

 江戸川に辿り着いた頃、辺りはすでに夜の帳に包まれていた。

 教習所の門をくぐり、波風寮への道を急ぐ。その足取りは軽い。

 桟橋の方からは、夜間整備に励む練習生たちの、からくりエンジンの不規則な咆哮が聞こえてくる。

「……遅かったな、おっさん」

 寮の入り口で、ブルドッグの鉄を連れたカイが立っていた。カイは健太の、ネクタイのない崩れたシャツ姿を見て、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。

「その顔……。会社、辞めてきたんだな」

「ああ。身軽になった。……カイ、昨日の貸しは、明日からの練習で利子をつけて返させてもらうぞ」

「はっ、上等だよ。出力不足をどう誤魔化すか、せいぜい一晩中計算してな」

 健太は自室に入り、鞄から古いレンチセットを取り出した。

 明日からは、もう偽りの計算式はいらない。

 三十五歳の研究生、佐伯健太。

 彼の本当の戦い――命を懸けた「本決算」が、今、江戸川の濁流の中で始まろうとしていた。

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― 新着の感想 ―
こっからが本番なのか(ボーゼン) 湾岸雷神会・元総長の顔がかっこよすぎます
はじめまして~Xから来ました。 暴走族の元総長という派手な過去を暴力や気合の象徴にせず、1円の狂いも許さない経理マンの規律とリンクさせた点が素晴らしいです。 0.1ミリのスロットル操作を予算管理に例え…
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