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からくり競艇〜サラリーマン、魂のフルスロットル〜  作者: 水前寺鯉太郎
サラリーマン編

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出力(パワー)か、精密(ロジック)か

「佐伯さん。……昨日の『調整』、ありゃあ認めますよ」

 模擬レースを控えたピット裏。大道寺カイが、最新鋭のナノファイバー製レーシングスーツに身を包み、健太の隣に立った。

 十八歳の瑞々しい肉体から溢れ出すマブイの波動は、近くにいるだけで空気が微動するほどだ。対する健太は、支給された野暮ったい訓練着の下に、自前の白いビジネスシャツを着込み、ネクタイをきつく締め直している。

「けど、実戦は別だ。マブイ値三,〇〇〇のポンコツに乗るおっさんが、二〇,〇〇〇オーバーの俺に勝てる道理はない。……物理法則が、そう言ってる」

 健太は、ボロい練習艇のカウリングを雑巾で拭きながら、眼鏡を指で直した。その動作には一点の無駄もなく、まるで見えない帳簿の数字を確認しているかのようだった。

「……物理法則か。経理の世界じゃ、数字は嘘をつかない。だがカイ、お前は計算式を間違えている。計算式が狂えば、導き出される答えは容易に反転する」

「……ふん、せいぜい溺れないように気をつけてな。ここは会社オフィスと違って、ミスれば死ぬぜ」

 カイは不敵に笑い、弾けるような加速で水面へと滑り出した。

 石原校長の号砲が、江戸川の重い空気を切り裂いた。

 六隻の練習艇がスリットを駆け抜ける。大外から異次元の伸びを見せたのは、やはりカイだった。

「ははっ! 消えろよ、おじさん!」

 カイのマブイが咆哮する。圧倒的な出力差。直線スリットでの伸びは、健太のボートを瞬時に置き去りにした。観戦していた他の生徒たちが「決まった」と確信した、その時だ。

 第一ターンマーク。江戸川特有の「逆流」と、河口から押し寄せる「うねり」が、牙を剥く。

「……ここが、損益分岐点だ」

 健太はスロットルを戻さなかった。

 通常なら確実に転覆する速度。だが、健太の右指は、マシンの神経系と直結したかのように、マブイの流量を「〇・〇一%刻み」で乱高下させた。

 バウンドする艇体。だが、健太は波の頂点で一瞬だけ出力を抜き、谷間で一気に全エネルギーを叩きつける。

 それは、暴走族時代、雨の第三京浜でハイドロプレーニング現象すら手懐けて駆け抜けた「死線のダンス」。路面(水面)からの入力を、瞬時に脳内でデータ化し、右手にフィードバックする。

「なっ……!? 減速してないのか!?」

 カイの目が見開かれる。

 パワーがありすぎるカイの艇は、うねりに足元を掬われ、艇体が狂ったように暴れる。出力の「過剰計上」だ。制御しきれず、ターンが大きく外へ膨らんだ。

 その、針の穴を通すような、わずか数センチの隙間。

 健太のボートが、吸い込まれるように内側インへ刺さった。

 激しい水飛沫が健太を打つ。ネクタイを締めた喉元が熱く、肺が冷たい飛沫を求めて喘ぐ。

「……マブイの総量じゃない。……使い道の問題だ」

 健太の「三,〇〇〇」のコアマブイが、臨界点を超えて青白く発光する。

 出力の低さを、一ミリの狂いもない最短コースのトレースで補う。それは、一円の使途不明金も許さない経理マンの「執念」そのものだった。

 第二マーク。焦ったカイが強引に被せに来る。

 接触すれば、強固なマブイ防壁バリアを持つカイが圧倒的に有利だ。健太のボートなど、一瞬で粉砕されるだろう。

 だが、健太はそこで、信じられない行動に出た。

「……エンジンを、カット……!?」

 カイが絶叫した。

 旋回ターンの真っ最中、健太は出力をゼロにした。失速する練習艇。カイのボートが、その前を空振りするように通過していく。

 健太は、あえて「慣性」という無料のリソースを最大限に利用し、艇体の向きを変えた。そして、カイが目の前を通り過ぎた刹那、蓄積された全エネルギーを再点火リブートした。

「サラリーマンを、なめるなよ……!」

 再加速の衝撃が、健太の背骨を軋ませる。

 膨らんだカイの懐を、最短距離で突き抜ける。

 ゴールラインを駆け抜けたのは、白い飛沫を浴び、スーツをボロボロにしながらも、冷徹な眼差しを失わない「おじさん」の艇だった。

 ピットに戻ったカイは、ハンドルを握ったまま動けずにいた。

「……なんでだ。出力スペックは俺が七倍も上だった。理論上、負けるはずがない……」

 健太は艇を降りると、よろけながらも眼鏡をかけ直し、シャツの襟を整えた。

「……カイ。これは経理の仕事と同じだ。予算マブイが少なくとも、無駄遣いを削り、最適なタイミングで一極集中投資すれば、赤字(負け)にはならない」

 健太は呆然とするカイの肩を一度だけ無造作に叩き、石原校長の方へと歩き出した。

 足元では、鉄が「なかなかやるじゃねえか」と言いたげに、健太の汚れた裾をグイグイと引っ張っている。

 石原が、葉巻の煙を吐き出しながらニヤリと笑った。

「精密機械どころか、とんだ博打打ち(トレーダー)じゃねえか、健太」

「……いえ。私はただ、一番確率の高い選択肢を選んだだけですよ」

 健太の背中は、夕暮れの江戸川の風に吹かれながら、再びあの「平凡な経理マン」の猫背に戻りつつあった。しかし、その瞳の奥に灯った火は、もはや誰にも消すことはできない。

 三十五歳の研究生。

 江戸川の「不渡り」を乗り越え、彼は今、真のプロレーサーへの第一歩を踏み出した。

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― 新着の感想 ―
健太さんカッコよすぎるんですよね。 というか、そこで加速できる!? そこでエンジンカットできる!? みたいな、勝負への冷静な執念がすごい
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