『決算、そして決別』
「佐伯さん、この前の接待費の精算なんですけど……」
「……ああ、そこに出しておいてくれ。後で見ておく」
横浜のオフィス。空調の音とキーボードを叩く音だけが響く中、健太はいつものように淡々と業務をこなしていた。
だが、そのワイシャツの下には、昨日の模擬レースで負った青あざが刻まれている。
(……潮時か)
健太は、長年使い古した電卓をデスクの引き出しに仕舞った。
一円の狂いもなく数字を合わせる人生。それはそれで、彼なりの「贖罪」だった。仲間の死から目を背け、静かな水面のような平穏を求めて辿り着いた場所。
だが、江戸川の濁流を一度知ってしまった以上、もうこの静寂には戻れない。
健太は懐から、一通の封筒を取り出した。
「辞職願」
昨日、教習所の寮で、あの「からくり点火プラグ」を磨きながら書き上げたものだ。
「……佐伯さん? 顔色が悪いですよ、今日も江戸川までイベントでも見に行くんですか?」
後輩の佐藤が心配そうに声をかけてくる。健太は小さく笑い、首を振った。
「いや……もう『見る』のは終わりだ、佐藤。今まで世話になったな」
健太は部長席の前へ歩み寄った。
驚く部長のデスクに、迷いのない手つきで辞表を置く。
「……佐伯君、これはどういうことだね? 君がいなくなったら、うちの経理は誰が回すと思ってるんだ」
部長の叱責。周囲の社員たちのどよめき。
かつての健太なら、ここで頭を下げ、組織の歯車として自分を殺していただろう。
だが今の健太の背筋は、あの現役時代のように、鉄の芯が通ったように伸びていた。
「……申し訳ありません。ですが、私の『流量』が、ここではもう抑えきれそうにないんです」
「何を言っているんだ君は! 35歳にもなって、これからどうするつもりだ。再就職先でもあるのかね?」
健太は無言で眼鏡を外し、胸ポケットに差し込んだ。
その瞬間、オフィスにいた全員が息を呑んだ。
穏やかな経理マン・佐伯健太の顔から、**「湾岸雷神会・元総長」**の凄みが剥き出しになったからだ。
「……レースに出ます。サラリーマンとしての決算は、すべてつけてきました」
健太は最後にもう一度だけ、自分のデスクを一瞥した。
私物は、カバンの中にある「からくり艇の部品」と「使い古したレンチ」だけ。
「……失礼します」
引き止める声を背中で切り捨て、健太はオフィスを後にした。
エレベーターを降り、横浜の風を受けた瞬間、彼はネクタイを力強く引きちぎった。
これからはもう、スーツで隠す必要はない。
二度と戻らない、泥沼と爆音の世界へ。
夕暮れの江戸川へと向かう電車の中で、健太はスマホを開き、大宮機艇教習所の石原校長に短いメッセージを送った。
『今日から、ただの研究生として宜しくお願いします。』
返信は一瞬で来た。
『鉄の餌を買ってこい。話はそれからだ。』
健太の口角が、ほんの少しだけ上がった。




