第40話:片手の旋回、闇夜の走行試験
深夜2時、平和島競艇場。
静まり返った水面に、一台のボートが音もなく降ろされた。古閑まきこが、テレビ局のコネと特命ルートを使って確保した「特別時間外貸切」だ。
「……佐伯さん、本当にやるんですか? 右腕を吊ったままなんて、もし転覆したら……」
古閑の心配をよそに、健太は慣れた手つきでヘルメットを被った。
右腕はギプスで胸元に固定され、完全に動かない。だが、片手懸垂で鍛え抜かれた左腕には、鋼鉄のような筋肉が盛り上がっている。
「……古閑さん、帳簿の数字が合わないときは、計算式を変えるしかないんだ。……両手が使えないなら、重心の置き方ですべてを解決する」
「フゴッ、フゴーッ!!」
スエは救命胴衣をしっかり装着し、健太の足の間、機体の最も重心が安定する位置に陣取った。スエの体重もまた、この「片手操縦」のバラスト(重り)として計算に入っているのだ。
爆音の咆哮:片手スロットル
「ガアアアアアンッ!!」
ハヤブサ(練習用の代機)が夜の静寂を切り裂く。
通常、左手でハンドル、右手でレギュレーター(スロットル)を操作するが、健太は左手の人差し指と中指でハンドルを握り、親指と薬指でスロットルレバーを操作する**『片手三指・グリップ』**を編み出していた。
「……いくぞ、スエ! 重心を左に15度移動!」
「ワンッ!」
第1マーク。時速80キロ。
健太は左腕一本でハンドルを内側へ叩き込むと同時に、膝と腰を使って機体を強引に傾けた。スエもまた、健太の動きに合わせて体を倒し、遠心力を相殺する。
「……ぐ、ぅぅっ!!」
左腕の三角筋が、千切れるほどの負荷で悲鳴を上げる。
だが、ボートは奇跡的な弧を描き、失速することなく1マークを「全速」で回った。
右腕を使わない分、余計な「引き」がなく、むしろ旋回半径が通常よりも鋭い。
闇からの視線
その光景を、ピットの影から驚愕の目で見つめる男がいた。
「……バカな。片手で、あの『うねり』を乗り越えただと?」
西貴斗だった。
彼は健太の再起を密かに気にかけていたが、目の前の光景は彼の常識を遥かに越えていた。
「……佐伯。あんたは一体、何者なんだ。……いや、今はそれどころじゃない。その走法……完成すれば、SGの頂点すら……」
特訓の果てに
10周、20周。
健太の左手は皮が剥け、血が滲んでいた。
だが、ストップウォッチを握る古閑の手は震えていた。
「……信じられない。両手で走っていたときよりも、コンマ2秒……タイムが縮まっている……」
健太はボートをピットに寄せ、スエを抱き上げて機体から降りた。
「……スエ。決算の準備は整った。……右腕が治るのを待つ必要はない。この『片手』で、東雲も、SGのライバルも、一気に差し押さえる」
眼鏡をかけ直した健太の背後で、夜明けの光が差し始める。
不自由な体。だが、その魂はかつてないほどに自由で、鋭かった。




