『亡霊の咆哮・東雲グループの暗転決算』
東京・大手町の超高層ビル。その最上階、分厚い防弾ガラスに守られた東雲グループ本社の役員会議室では、祝杯が挙げられるはずだった。
福岡SG優勝戦。その水面下で蠢いた巨額の裏賭博と、邪魔な「監査役」を排除した報酬。テーブルには、ヴィンテージのシャンパンと、血の通わない数字が並ぶ収支報告書が置かれている。
「……佐伯健太は消えた。あの忌まわしい『ハヤブサ』も、那珂川の底でスクラップだ。これで福岡の利権、ひいては次世代マブイエネルギーの独占権は我々の手に落ちたも同然だ」
常務が冷酷な笑みを浮かべ、クリスタルグラスを掲げた、その時だった。
壁一面に設置されたマルチモニターの映像に、激しいノイズが走った。
「……何だ? 通信障害か?」
次の瞬間、スピーカーが割れんばかりの爆音を吐き出した。それは、彼らが福岡の水底へ永遠に葬り去ったはずの、あの高周波混じりの、剥き出しの**「六十一号機の排気音」**だった。
「報告します! 緊急事態です!」
血相を変えた秘書が、扉を蹴破る勢いで飛び込んできた。
「……馬鹿者が、取り乱すな。佐伯の死亡確認はどうなった」
「それが……生きています! 深夜の平和島競艇場に、奴が現れました!」
「何だと!? あの激突で生きていられるはずがない! 右腕も粉砕され、二度とハンドルなど握れないはずだ!」
常務の怒号に、秘書は震える手でタブレットの映像を差し出した。そこには、漆黒の闇を切り裂き、片腕だけで猛速の旋回を決める「亡霊」の姿が映っていた。
「……片手です。佐伯は、右腕を吊ったまま左手一本でボートを操り、事故前……いえ、現役時代のレコードを塗り替えるタイムを叩き出しています! しかも、あの『パグ』も同乗しています。奴の動きに合わせて、犬が重心を制御しているんです!」
常務のグラスが床に落ち、粉々に砕け散った。
彼らにとって、佐伯健太はただのレーサーではない。自分たちが積み上げてきた「粉飾の歴史」を次々と暴き、闇に葬ってきた元・特命係長。その「歩く監査法人」が、死の淵から片腕一本で這い上がってきたのだ。
彼らの帳簿に、計上不可能な「巨大な負債」が突如として現れた瞬間だった。
「……すぐに始末しろ! 今度こそ、跡形もなく消し去るんだ! 殺し屋でも何でも送り込め!」
「不可能です、常務! 奴の周囲は今、鉄壁の守りです。東京支部の霧島麗華が私設警備を引き連れ、さらにはテレビ局の古閑まきこが『奇跡の生還』として二十四時間の密着取材を始めています。迂闊に手を出せば、東雲グループそのものがマスコミと競艇界全体から『永久追放』されます!」
東雲グループが数十年かけて築き上げた「不正の要塞」が、佐伯健太の生存という、たった一つの「事実」によって、足元から音を立てて崩れ始めていた。
彼らがもっとも恐れているのは、健太の走法ではない。健太がその「左手」で、自分たちの隠し口座の鍵を既に握りつぶしているのではないかという、拭い去れない疑念だった。
一方、墨田区の古びたマンション。
健太は左手だけで精密にマウスを操作し、モニターに流れる東雲グループの株価チャートを冷徹に眺めていた。
傍らでは、スエが「特命」の重任を終え、自分への報酬として用意された新しいデンタルガムを満足げに噛んでいる。
「……スエ。連中、相当焦っているな。……チャートに『恐怖』という名の売り注文が出ている」
健太のPC画面には、東雲グループが十数年にわたって隠蔽してきた「海外へのマブイ不正送金ルート」の全貌が、古閑まきこの提供した内部資料によって完全にマッピングされていた。
「……右腕が完治するまでの三ヶ月、じっくりと外堀を埋めてやるつもりだったが。……向こうから勝手にキャッシュフローを乱してくれるなら、予定を前倒しして『強制捜査』といこうか」
健太は眼鏡を指で静かに押し上げ、不敵な笑みを浮かべた。
その視線の先には、明日公示される「平和島・一般戦」の出走表があった。
「スエ。明日の『決算』には、お前の体重移動が必要だ。しっかり食っておけよ」
「フゴッ」
スエは健太の足元に寄り添い、主人の再起を確信して深い眠りについた。
身体は満身創痍。右手は動かない。
しかし、左手一本でキーボードを叩き、ハンドルを握るこの男にとって、東雲グループなどという巨大企業も、もはや「整理回収すべき不良債権」に過ぎなかった。
明日、復帰戦の公示が出る。
それは、東雲グループに対する「最後通牒(倒産宣告)」となり、博多で流した血のすべてを清算する、血塗られたレースの幕開けとなるはずだ。
「……監査の時間だ、東雲。一円の端数も残さず、地獄へ計上してやるよ」
東京の夜闇を、健太の眼鏡が青白く射抜いていた。




