片手の誓い・リハビリという名の先行投資
二〇四一年、晩夏。東京、隅田川沿いの早朝。
川面をなでる冷たい風が、佐伯健太の肺を鋭く、そして心地よく刺激する。右腕を固定する厚いギプスは痛々しいが、健太の表情に「敗北」の濁りは微塵もなかった。そこにあるのは、冷徹なまでに研ぎ澄まされた「再起」への計算式だけだ。
「……フゴーッ、フゴーッ!!」
足元では、スエが特注の「リハビリ応援バンダナ(唐草模様)」を首に巻き、軽快にステップを踏んでいる。その鼻息は、絶望の底から這い上がろうとする「おじさん」を鼓舞する、世界で唯一のファンファーレだった。
「いいか、スエ。右腕という『主要資産』が一時的に凍結されているなら、左腕という『内部留保』を二倍に強化して補填すればいい。単純な連結決算のロジックだ」
健太は公園の片隅にある、塗装のはげた古びた鉄棒の前に立った。ギプスを吊る三角巾を左手で解き、重心を整える。
健太は左手だけで、冷え切った鉄棒を掴んだ。
通常の三十六歳なら、ぶら下がることすら困難な「片手懸垂」。しかし、健太が求めているのは、SGの旋回時にかかる凄まじいG(重力)を左腕一本でねじ伏せ、機体を制御し切るための、超人的な筋力とバランス感覚の再構築だった。
「……ぬ……ぐっ……!!」
広背筋が引きちぎれんばかりに悲鳴を上げ、前腕の血管が青白く浮き出る。
右腕の重みで体の軸が右へ傾こうとするのを、強靭な腹筋と体幹の「逆位相」で強引に修正する。この微細な筋肉のコントロールは、まさに福岡の激流でコントロールを失った機体を立て直す、あの死闘の感覚そのものだった。
「ワンッ! ワンッ! ワンッ!!(いける! あと一センチで『黒字』だ、おじさんッ!!)」
スエが鉄棒の真下で後肢立ちになり、前足で空をかく。まるで物理的に主人の体を押し上げようとするかのように、必死に声を張り上げる。
「……おおおおおッ!!」
最後の一搾り。筋肉が断裂せんばかりの咆哮と共に、健太の顎が鉄棒のラインを越えた。
左腕一本で、己の体重と、挫折という名の巨大な重圧をすべて引き揚げた瞬間だった。
「……はぁ、はぁ、はぁ……。……見たか、スエ。……計算通り、出力は戻りつつある」
鉄棒から飛び降りた健太の元へ、スエが全力で飛びつく。健太は汗だくのまま左手一つでスエを抱き上げ、その温もりを心臓に刻みつけた。
その光景を、公園の深い木陰から見つめる二つの視線があった。
「……バカね。あんな無茶して、傷口が開いたらどうするつもりかしら」
大きなサングラスと帽子で変装した霧島麗華が、双眼鏡を握りしめて毒づく。しかし、その声は微かに震えていた。彼女の手には、福岡の老舗薬膳店から極秘に取り寄せた「骨と筋肉の再生を促す特製スープ」を詰めた魔法瓶が握られている。
「……でも、あの背中。やっぱり、私が買い被った……じゃなくて、認めた男だわ。安値で損切りしなくて正解だったかしらね」
少し離れた路上の車内では、古閑まきこもまた、望遠レンズ付きのタブレットで健太のトレーニングを克明に記録していた。
「……佐伯さん。その鋼の左腕で、東雲の喉元を掴む日は近いですね。……特報の準備はできていますよ」
彼女の画面には、トレーニング動画の横で、着々と進む「東雲グループの脱税疑惑」の裏付け資料が並んでいた。
第四章:夜の「強制執行」
夜。隅田川の夜景を臨む自宅。
健太はスエに「リハビリ特別手当」として最高級のササミを与え、自身は左手だけで精密にキーボードを叩き始めた。
「……よし。肉体の再建は順調だ。……次は、東雲グループの『不透明な資金』を、この左手で物理的に差し押さえる番だ」
モニターには、東雲グループがSGの裏で操作していた、巨額の違法賭博ルートと資金洗浄のネットワーク図が明滅していた。水上のリベンジを果たす前に、まずは地上での「資産凍結」による強制捜査が始まろうとしている。
「フゴッ」
スエは、健太の足元で丸くなり、主人の再起を確信したように深い寝息を立て始めた。
右腕は折れても、ペンとハンドルを握る意志は折れない。
傷ついたおじさんとパグによる、前代未聞の「逆転Vモンキー」へのシナリオは、着実に最終頁へと向かっていた。
「……待ってろよ、東雲。……次の『決算日』が、お前たちの倒産記念日だ」
東京の夜闇を、健太の眼鏡が青白く射抜いていた。




