撤退の算盤・ゴースト元帳の起動
第38話 撤退の算盤・ゴースト元帳の起動
「……すまない。不徳の致すところだ、みんな」
福岡空港へと向かうタクシーを急遽変更し、博多駅へと向かう車内。佐伯健太はギプスで厳重に固定された右腕を虚空に見つめ、搾り出すように呟いた。
二〇四一年、八月。SG優勝戦当日。福岡競艇場では、選ばれし六人による最高峰の戦いを告げるファンファーレが華やかに鳴り響いている。だが、そこに「佐伯健太」の名はなく、漆黒の翼をもがれた愛機「ハヤブサ」の姿もない。
診断結果は全治三ヶ月。右腕の複雑骨折は、ボートレーサーとしての死刑宣告に近い。医師の厳格な勧告、そして何よりスクラップと化したハヤブサの無惨な姿を前に、健太は一度「退却」という名の損切りを決断した。
博多駅、新幹線ホーム。
そこには、前検日からの戦場を抜け出してまで駆けつけた、麗華、みなみ、そして中島和樹の姿があった。
「……佐伯。あんた、これで終わりじゃないわよね? 東京支部の女王が、一度不覚を取った相手に逃げられるなんて、私のプライド(貸借対照表)が許さないわ」
麗華はいつものように不遜に言い放つが、その瞳の奥には隠しきれない動揺と、微かな潤みが溜まっている。
「佐伯さん、ハヤブサは私たちが責任を持って預かります。……次、あなたが福岡のピットに立つ時は、世界で一番速く、折れない翼に戻しておきますから」
松風みなみがペキニーズのハクを抱きしめながら、静かに、しかし鋼のような意志を込めて誓った。
「……ああ。必ず、経営再建して戻ってくるよ」
健太は、スエが入ったキャリーバッグを左手一つで持ち上げた。スエはいつものように騒ぐこともなく、ただ静かに、主人の胸の奥に澱のように沈む悔しさを察するように「キュ〜ン……」と切なげに鼻を鳴らした。
新幹線が加速し、博多の街並みが後方へと飛び去っていく。
健太は自由席の窓際に座り、流れる景色に自分の青白い顔を映していた。
「……特命係長時代も、一度だけ大きな読み違えをして、地方の不採算部門に飛ばされたことがあったな、スエ」
バッグの隙間から、スエの丸い目が健太を見上げる。
かつて企業の巨大な闇を暴きすぎて、国家レベルの刺客に命を狙われ、半年間身を隠した日々。今の絶望的な状況は、あの孤独な潜伏期間と酷似していた。
「……だが、あの時も最後は『黒字』で締めた。今回も、一円の狂いもなく清算してやる」
健太は左手でスマホを取り出し、古閑まきこから送られてきた「東雲グループ・福岡暗躍リスト」をスクロールした。レースという表舞台(水上)での勝負は、今は物理的に不可能だ。ならば、自分の真の土俵である「数字」と「闇」の世界で、奴らを破産に追い込むまでだ。
数時間後。辿り着いたのは、東京・隅田川に近い、築年数の経った古いマンション。
平和島の喧騒も、江戸川のうねりも届かない。そこは健太がレーサーという「夢」を追う前から住んでいた、一人の地味な経理マンとしての生活拠点だった。
部屋に入ると、数週間分の埃の匂いが鼻を突いた。健太はスエをバッグから放すと、深く、重く、ソファに沈み込んだ。右腕の脈打つような疼きが、そのたびに敗北の苦い味を思い出させる。
「フゴッ……。フゴッ……」
スエが、部屋の隅に置かれたクローゼットを執拗に掘り返し始めた。やがて、埃を被った古い「ビジネスバッグ」と、重厚な「ノートパソコン」を鼻先で押し、健太の足元まで運んできた。
「……スエ。お前、わかっているな。俺が次に何をするべきか」
健太は左手だけでバッグのジッパーを開け、二重底の隠しポケットから、一つの赤いUSBトークンを取り出した。
それは、レースの解析データではない。
「特命係長」時代、全世界の不透明な資金流動を監視し、不正を自動で検知するために構築した、独自の裏監査システム『ゴースト・元帳』への鍵だった。
健太は胸ポケットから取り出した黒縁眼鏡を左手で掛け直し、キーボードを叩き始めた。ギプスをはめた右腕の重みが、逆に精神を研ぎ澄ませていく。
「水上が無理なら、地上で追い詰める。……東雲グループの息の根を、まずはその『財布』から止めてやる。……奴らがSGの裏賭博で稼ごうとしている浮き足立った闇賭博の違法資金、すべて俺が『不適切資産』として凍結してやるよ」
モニターの青白い光が、健太の冷徹な眼鏡の奥で激しく明滅する。
部屋の片隅では、スエが「それでこそ私の主人だ」と言わんばかりに、健太の足の甲に顎を乗せて寝息を立て始めた。
夕闇が東京の空を完全に塗り潰す。
右腕を折られたおじさんと、一匹のパグ。
しかし、その静かな六畳間から放たれる電子の触手は、福岡で祝杯を上げようとしている東雲グループの巨大な利権を、音もなく、そして確実に絞め殺そうと動き始めていた。
「……さあ、夜の残業(復讐)を始めようか、スエ」
佐伯健太の、人生で最も冷酷な「特別監査」が、今、執行された。




