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からくり競艇〜サラリーマン、魂のフルスロットル〜  作者: 水前寺鯉太郎
SG挑戦編

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病室の監査・三途の川の未払い金

第37話 病室の監査・三途の川の未払い金

 二〇四一年、八月。福岡市内の総合病院。特別室の窓の外には、皮肉なほど穏やかな博多の夜景が広がっていた。

 準優勝戦での激突。右腕複雑骨折、肋骨三本の亀裂、そして全身打撲。佐伯健太は、幾重にも巻かれた白い包帯に封印され、深い意識の底で戦っていた。

「……フゴッ……。……フゴッ……」

 本来、この清潔な無菌室に犬の足跡は許されない。しかし、SGの惨劇と健太の献身を知った病院長――かつて江戸川で健太の走りに魂を震わせた一人のファン――の、独断と偏見による「特例承認」により、スエの同伴が許されていた。

 スエは、健太の枕元のわずかなスペースに陣取り、彫像のように動かなかった。

 心電図が刻む電子音。スエはその音を、主人の命の鼓動として一拍も漏らさず監視していた。

 スエによる二十四時間体制の「特別監査」――。

 点滴の検収。看護師が薬剤のボトルを交換に来るたび、スエは鋭い眼光でその動きを追う。不審な薬剤や毒物の混入がないか、パグ特有の鋭い嗅覚で成分を厳しくチェックする。

痛みの相殺(デリバティブ)。健太が苦痛に顔を歪めると、スエは傷口を慎重に避け、そっと健太の左手に自分の温かい顎を乗せる。その柔らかな体温は、どんな最新の鎮痛剤よりも深く健太の神経を鎮めていった。

「共食」の拒否。麗華が差し入れた最高級のササミ。空腹のはずのスエだが、頑なに首を振った。主人が起きて、共に「決算(食事)」を終えるまで、自分だけ一欠片も計上しないという固い意志だった。

「……佐伯さん、まだ目覚めないのね」

 病室の扉を静かに開けた霧島麗華は、普段の傲慢な女王の仮面を脱ぎ捨てていた。彼女の手には、事故現場から回収された、粉々に砕けた『ハヤブサ』の機首エンブレムが握られている。

「松風さんが言ってたわ。東雲グループは、あなたが再起不能になったと確信して、明日の優勝戦の裏で天文学的な金額の闇賭博を仕掛けているって。……許せない。私の愛する水面を汚した挙句、あなたまで壊して……」

 麗華の背後には、松風みなみとペキニーズのハクも控えていた。

「佐伯さん……。ハクがずっと、窓の外の月を見ているんです。……まだ、戦いの灯火は消えていないって。……『ハヤブサ』は今、白石さんと福岡支部の腕利きたちが、秘密のドックで作り直しています。一晩で、あのスクラップを『不死鳥』に変えるつもりです」

 みなみの瞳には、健太から受け取った「不屈」の意志が、静かな炎となって宿っていた。

 その深夜。月の光が病室を青白く照らし、静寂が極まった瞬間。健太の左手が、微かに痙攣するように動いた。

 指先が触れたのは、自分を温め続けていたスエの、少し湿った柔らかな毛並み。

「……す……スエ……か……」

「……ッ!! フガッ! フガガガッ!!」

 スエが狂喜乱舞し、健太の頬を、瞼を、これでもかとばかりに舐め上げる!

「……痛い、痛いよスエ……。……だが、助かった。……お前の粘り強い監査(ペロペロ)のおかげで、三途の川の渡し賃を払わずに済んだよ。……まだ、払うべき『ツケ』が残っているからな」

 健太は、ギプスでガチガチに固められた右腕をじっと見つめた。

 レーサーとしては、もはや致命傷。普通なら引退届を書く場面だ。だが、胸ポケットから取り出させた眼鏡を左手で掛け直すと、その瞳には、かつての特命係長さえも凌駕する、冷徹なまでの怒りと不屈の執念が戻っていた。

「……スエ。車椅子を回せ。……まだ、今期の決算報告書(SG優勝戦)は、提出(クローズ)していない」

 健太は震える左手でサイドテーブルのスマートフォンを手に取り、慣れた手つきで秘匿回線を開いた。

「……古閑さんか。……ああ、佐伯だ。……死に損なったよ。……悪いが、特命の『追撃融資』を頼みたい。……東雲が優勝戦に賭けた全資産、そして連中の野望を、明日の水面で一円残らず叩き潰す(デフォルトさせる)」

 病室の片隅で、スエとハクが顔を見合わせ、夜を切り裂くように力強く吠えた。

 身体は満身創痍。愛機は大破。右手は動かない。

しかし、おじさんと愛犬は、どん底の赤字から「逆転Vモンキー」を成し遂げるための、最も危険な計画を既に描き始めていた。

「……さあ、スエ。……『不適切な存在』を、市場から強制退場させに行こうか」

 博多の空が白み始める。

佐伯健太、人生最大の「場外決戦」が始まろうとしていた。

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