博多の悲劇・壊れた算盤
第36話 博多の悲劇・壊れた算盤
二〇四一年、八月、夕刻。福岡競艇場。
準優勝戦のファンファーレが鳴り響く中、那珂川の河口は満潮を迎え、不気味なほどに水位を増していた。カクテル光線に照らされた水面は、これから起こる惨劇を予見するように、どす黒く波打っている。
佐伯健太の愛機『ハヤブサ(六十一号機)』は、これまでの激闘による金属疲労、そして東雲グループが仕掛けた「論理爆弾」という名の見えない亀裂を抱え、悲鳴を上げていた。
白のカポックを纏った健太は、ヘルメットのシールドを下ろし、胸ポケットに眼鏡をねじ込んだ。コンタクトレンズの瞳に、不自然に揺らぐ水面の数値が浮かび上がる。
脳裏に浮かぶのは、前検日にペットホテルでスエが見せたあの必死の眼光だ。相棒の死角に忍び寄る「完全なる破滅」への、直感的な警告。
(……スエ、大丈夫だ。俺たちの『最終決算』は、まだ終わっちゃいない。必ず、黒字で戻ってくる)
健太は静かにそう心で呟くと、殺意の渦巻く水面へと白のカポックの機体を滑らせた。
「……スタート!!」
第一コースの健太は、「コンマゼロ八」の電撃全速スタートを決めた! ハヤブサが水面を切り裂き、トップ旋回へ入ろうとした、その刹那!
エンジンの深層部から、鼓膜を刺すような高周波のスラスト干渉音が漏れ出した!
(……!? 指示に対するレスポンスが……一秒遅れている!?)
健太の驚異的な「現場感覚」が、即座に致命的なラグを検知した。時速八十キロを超える極限の世界。そこでの一秒は、宇宙の終わりほどに長い。ハヤブサの制御系に仕込まれた「逆位相プログラム」が、健太のハンドル操作を完全に拒絶し始めたのだ!
第一ターンマーク。健太が渾身の力でハンドルを切り、スロットルを絞り込もうとした瞬間――。
「ガガッ……!!」
エンジンの回転が物理法則を無視して急激に逆転し、ハヤブサは逃げ場のない「うねり」の中で、突如として沈黙した! 推進力を失った機体は、コントロール不能な「鉄の塊」と化し、慣性だけで後続艇の航路へと迷い込んでいく!
「佐伯!? 何やってんのよ、避けてッ!!」
後続から全速で差しを狙っていた麗華の五号艇が、大声で絶叫する!
しかし、無情にもハヤブサは、上げ潮の渦に吸い込まれるように急旋回。そこへ、時速百キロ近い速度で突っ込んできた他艇が、健太のコクピットを真横から捉えた!
「ドォォォォォンッ!!」
福岡の水面に、ハヤブサの真っ白なカウルが粉々に砕け散り、巨大な水柱が上がる! 衝撃で健太のヘルメットが吹き飛び、視界が鮮血で染まった。衝撃波が那珂川の川底を揺らし、ハヤブサの心臓部が完全に機能を停止した!
「……あ……スエ……、霧島、さん……」
意識が遠のく中、健太は冷たい水の底へと沈んでいった。砕けたハヤブサの残骸が、まるで殉職した部下のように、主を守るように周囲を漂っている。
(……これで、俺の帳簿も……強制終了か……)
深い闇に包まれようとしたその時。健太の脳裏に、前検日に見たスエのあの力強い瞳と、魂の叫びが鋭く閃いた!
(起きろッ! まだ決算は終わってねえぞッ!!)
それは、データも確率も無視した、魂の救難信号!
「佐伯さんッ!!」
激突を間一髪で回避した麗華と松風みなみが、即座に艇をレスキューピットへつけ、救助隊とともに冷たい水面から健太を引き揚げた。
健太の右腕は激しい衝撃で無残に傷つき、愛機ハヤブサは再起不能な「廃船」と化していた。
救護室のベッド。微かな意識を取り戻した健太の耳に、スマホ越しにペットホテルから届くスエの必死な鼻鳴らしと、付き添う仲間の気配が伝わってきた。
予選敗退、機体は大破、そして再起不能とも思える重傷。
どん底に突き落とされた三十六歳のおじさんレーサー。
だが、健太の残った左手を、麗華が、みなみが、そして普段は寡黙な中島和樹が、静かに、しかし鉄のように力強く握っていた。
「……佐伯。……あいつらを、このまま生かしてはおけん」
中島の瞳が、本物の「修羅」の輝きを放つ。
福岡SG、優勝戦への道は絶たれた。
だが、ここから始まるのは、ルールも審判も、そして「就業規則」さえも存在しない――特命係長・佐伯健太と東雲グループによる、真の「血塗られた最終監査」だった。
「……スエ。……ペンと、帳簿を持ってこい。……奴らの命を、一円残らず『除却』してやる」
健太が開いた瞳には、胸ポケットから取り出して掛け直した眼鏡の奥で、かつての特命係長さえも凌駕する、静かなる狂気が宿っていた。




