逆位相の航跡・特命チーム結成
第33話 逆位相の航跡・特命チーム結成
二〇四一年、八月。福岡競艇場のピット。
昨日、前検日に白いペキニーズ・ハクが健太に届けた真鍮のカプセル。その中のチップには、福岡の複雑怪奇な「うねり」を、那珂川の流速と潮位からリアルタイムで解析する極秘のアルゴリズムが記録されていた。
「……おはようございます、佐伯さん。昨日の『資料』、目を通していただけましたか?」
背後からかけられた声は、朝の空気を震わせる鈴の音のように澄んでいた。
そこに立っていたのは、福岡支部の期待を一身に背負う十八歳のエース、松風みなみ。モデルのような愛らしい容姿とは裏腹に、彼女が纏う十四号機のスラストは、驚くほど高密度で、静かな殺気すら孕んでいる。
「……松風さん。ハクくんが届けてくれたこれ、君の独断かな? 競艇法的には『情報の不正授受』を疑われかねない代物だが」
健太が指先でチップを弄ぶと、みなみは小さく微笑み、周囲に誰もいないことを確認してから声を潜めた。
「……私の十四号機は、スタートの瞬間に全スラストを『圧縮』して一気に放つ、特殊な高圧仕様なんです。でも、最近その制御回路に、見慣れない刻印……『東雲グループ』の息がかかったパーツが紛れ込んでいることに気づきました」
「……なるほど。それで特命……いや、元・経理の俺に、物理的な『監査』を頼みたいってことか」
みなみは深く頷いた。
「前検日、ハクが佐伯さんのスエちゃんを選んだのは、この不純物に満ちた福岡のピットで、あなたたちだけが『粉飾のない魂』を持っていたから。……信じていいんですね、佐伯さん」
予選第五レース。白のカポックを纏った佐伯健太が第一コース。第四コース、カドの位置に松風みなみ。
松風みなみの真骨頂は、その驚異的なスタート勘と、圧縮スラストによる「ゼロ秒の爆発力」にある。
「……全速!」
大時計の針が頂点を刻む瞬間、みなみの十四号機が「コンマゼロ二」という神がかり的なタイミングでスリットを通過した! 強烈な高圧スラストが瞬時に爆発し、水面に白い雷光を走らせる!
「速すぎる……! あの若さで、福岡のうねりを無視して全速で駆け抜ける気か!」
第二コースの西貴斗が戦慄する。
だが、健太はみなみから受け取ったデータを、すでにハヤブサの機体脳に同期させていた。那珂川から流れ込む上げ潮が作る「死の反転流」。その唯一の安息点(安全地帯)を、健太のコンタクトレンズの瞳は捉えていた。
「……松風さん。君の覚悟、この『ハヤブサ』の帳簿に刻ませてもらった!」
みなみが強烈な「まくり」を仕掛け、健太がインから「応戦」する。通常のレースなら、火花を散らして激突する死のライン。
しかし、二艇のスラストが水面で交錯した瞬間――反発するのではなく、互いの周波数を補完し合い、周囲のうねりを打ち消す「逆位相の干渉波」を生み出した!
二艇はまるで鏡合わせのダンスを踊るように、他艇を置き去りにして第一マークを鮮やかに旋回! 福岡の観客席が、その美しすぎる航跡に一瞬静まり返った!
結果は、最短内角を死守した白のカポックの健太が一着。わずか数センチ届かなかったみなみが二着。
だが、二人の顔に敗北の陰はなかった。
「……負けました。でも、確信しました」
レース後、ピットに戻ったみなみはヘルメットを脱ぎ、汗に濡れた前髪を払いながら健太を真っ直ぐに見つめた。
「佐伯さんのハヤブサなら、私の十四号機に仕掛けられた『時限式スラスト・ロック』を外せる。物理的に、叩き壊してでも」
東雲グループの狙いは、みなみの圧倒的なスタート能力を逆手に取ることだった。SG優勝戦、全艇が最も密集するスタート時に、彼女のエンジンを強制暴走させ、全艇を巻き込む大事故を引き起こそうと画策しているのだ。
健太は胸ポケットから取り出した眼鏡を掛け直した。宿舎でスマホを受け取り、ペットホテルで寄り添うように並んで眠るスエとハクの写真を確認する。
パグとペキニーズ。くたびれたおじさんと、孤独な天才少女。
「……よし。……最終決算(優勝戦)までに、その『不適切なパーツ』、全部スクラップにしてやるよ」
健太の瞳が、「特命係長」の冷徹な、しかし熱い光へと変貌した。
福岡SGの深い闇を照らすため、異色の監査チームが、今ここに結成された。




