博多の白き刺客・那珂川の暗号
第32話 博多の白き刺客・那珂川の暗号
二〇四一年、八月。福岡競艇場。
SG開催の前検日(前日)、手荷物検査と宿舎に入る前のわずかな時間。
佐伯健太は、福岡競艇場近くの指定ペットホテルで愛犬・スエを預ける手続きを行っていた。
「……フゴー、フゴー」
スエは博多の力強い海風を鼻先に受け、実にご機嫌だ。健太もこの時ばかりは、背負い込んだ「特命」の重圧を意識の外へと追いやり、ただの飼い主としての穏やかな横顔を見せていた。
「いいかスエ、明日からSG本番だ。宿舎に入れば、また西や中島さんの猛烈な高出力スラストという名の超過勤務が待ってるんだからな」
健太が防水仕様の時計を確認し、受付へ向かおうとした、その時だった。
スエが急に足を止め、短い尻尾をピコピコと規則正しく振って、背後を振り返った。
「……フガッ?」
健太が視線を向けると、待合スペースのベンチの脇に一匹の真っ白なペキニーズがいた。
その犬は、気高く、どこか優雅な足取りで佇んでいた。しかし、その黒真珠のような瞳には、普通の愛玩犬とは思えない鋭い「知性」と、勝負師の愛獣特有の気配が宿っていた。
「……野良犬じゃないな。この完璧なトリミング、相当な管理をかけられているぞ」
健太が足を止めると、ペキニーズもまたピタリと止まる。
スエが「遊ぶか?」と言わんばかりに近づこうとすると、ペキニーズは小さく首を傾げ、口に咥えていた「小さな真鍮製のカプセル」を、健太の足元にポトリと落とした。
「……なんだ、これは。落とし物か?」
健太がそれを拾い上げようとした瞬間、背後から冷ややかな、しかし凛とした声が響いた。
「……それは、私のハクが選んだ『あなたへの挑戦状』よ。佐伯健太選手」
振り返ると、そこにいたのは福岡支部が誇る期待の若手、そして今回のSGでダークホースと目される女性レーサー、「松風みなみ」だった。
彼女の足元に、ペキニーズのハクは静かに戻り、まるでお辞儀をするような優雅な所作で健太を見つめた。
「ハクは、レーサーの醸し出す気配の真偽を見抜く。……あなたのスエちゃん、なかなか骨のある面構えをしてるわね。でも、福岡のうねりを真に乗りこなすのは、地元よ」
松風はそれだけ言い残すと、白い影を連れて、夕闇の博多の街へと消えていった。
宿舎に入り、通信機器の管理解除後に個室で暗号カプセルを開封した健太は、ポータブル端末にホログラム・チップを接続した。
展開されたのは――。
「……これは、明日の予選第十レースの……『那珂川河口における、秒単位の潮位変動予測データ』か?」
健太の眉間に深い皺が寄る。東雲グループの残党が場外で暗躍する中、なぜ地元のライバルである松風みなみが、これほどの極秘データを自分に渡したのか。
これは「罠」という名の架空請求か。あるいは、からくり競艇の不透明な闇を切り裂こうとする、孤高の意志による「内部告発」なのか。
「……スエ。どうやらあの白いペキニーズ、お前を単なる遊び相手だとは思ってないみたいだぞ」
宿舎のスマホ画面の中で、ペットホテルのカメラに映るスエが「当然だ」と言わんばかりに力強く鼻を鳴らした。
福岡SG、二日目。
健太の脳内には、チップから得た「不規則な潮位」の計算式が完璧にインプットされていた。しかし、松風みなみの真意だけは、未だに「使途不明金」として処理しきれずにいる。
ピットに向かう通路。健太の横を、松風が通り過ぎる。
「……データの使い道は、あなた次第よ。おじさん」
松風の低い囁き。
健太の前に、那珂川の濁流よりも複雑な「女たちの意地」と、白いペキニーズが導く「水上の迷宮」が、圧倒的な質量を持って立ちはだかろうとしていた。
「……よし。貸し借りは作らない主義だ。このデータ、レースでキッチリ『利益』に変えてやるぞ」
福岡の空に、予選二日目のファンファーレが豪快に鳴り響いた。




