博多のうねり・SG初陣の減資
第31話 博多のうねり・SG初陣の減資
二〇四一年、八月。九州、博多。
燃え盛る太陽が那珂川の河口を照らし、福岡競艇場の水面は、独特の「うねり」を伴って波打っていた。佐伯健太は、元サラリーマン、そして「特命係長」としての鋭利な過去をレーシングスーツの奥に隠し、一人のトップレーサーとしてピットに立っていた。
「……ここが、SGの現場か。流石に計上されているスラストの絶対圧(熱気)が違うな」
周囲を見渡せば、中島和樹、西貴斗、霧島麗華といった馴染みの強豪に加え、全国から集った「スラスト出力十万オーバー」の怪物たちが、殺気にも似たオーラを放っている。ここは、一円の妥協も許されない、文字通りの「最終決算」の場だ。
福岡競艇場は、第一マーク側が那珂川の河口に突き出しており、潮の満ち引きと川の流れが激突することで、複雑怪奇なうねりが発生する。
「佐伯さん! SGの福岡は、江戸川以上に『計算』が狂いますよ!」
岡山の長野友里恵が、四十四号機のペラを調整しながら声をかける。
健太の愛機『ハヤブサ(六十一号機)』は、江戸川でのダメージを白石が不眠不休の突貫工事で修正した「SG仕様」だ。しかし、スラスト流量制御弁のピーキーさは相変わらずで、乗り手を選ぶ「じゃじゃ馬」のままだった。
華やかな開会式。数万人のファンからの地鳴りのような大歓声の中、健太は古閑まきこアナウンサーがマイクを握るステージへ上がる。
「……佐伯選手、ファン投票での選出、おめでとうございます。意気込みを」
「……一円でも多くの感動を、お客様の配当金に確実に振り込めるよう、全力を尽くします」
健太の四角四面な挨拶に、観客からドッと笑いが起きる。古閑はプロの笑みを浮かべながら、マイクが拾わないほど小さな声で、健太にだけ届くように囁いた。
「……東雲グループの残党が、福岡の『場外』で不穏な動きを見せています。気をつけて、佐伯さん」
その瞬間、健太の背筋を氷のような冷気が走った。
視線を感じて振り返ると、ピット裏の警備エリアの陰に、一般客とは明らかに異なる「黒いスーツの集団」が立っていた。彼らの視線は、健太という「資産」を物理的に抹消せんとする、冷酷な監査官のそれだった。
第一レース。SG初陣。
第一コースに西貴斗、第三コースに赤のカポックを纏った佐伯健太、第四コースに霧島麗華。
スタートの瞬間、西の〇一号機が驚異的な加速を見せ、ハナを奪う!
「佐伯! 福岡の波に飲まれて、サラリーマン時代を思い出して昼寝していろ!」
西の怒号が水飛沫を超えて響く。だが、健太は冷静だった。
「……西くん、悪いが俺は『残業』には慣れてるんだ。予測不能な事態こそ、俺の本領だ」
第一マーク。福岡独特のうねりが全艇を容赦なく跳ね上げ、バランスを崩させる!
健太は、あえてスロットルを「コンマ一ミリ」だけ全閉にした! 波の頂点に挑むのではなく、波の谷間――最も圧力が低いデッドスペースにハヤブサを滑り込ませる!
奥義:『減資旋回』!
一時的にスラスト出力を捨て、機体の浮力と慣性だけで旋回半径を最小化する。前検日にペットホテルでスエが見せたうねりへの警戒の眼光。その直感を脳内マップに重ね、西がうねりに翻弄されて旋回半径が膨らんだその刹那、コンマ一ミリの隙間に赤のカポックのハヤブサの機首をねじ込む!
「そこだッ!!」
結果は、西を僅差で差し切り、SG初出場・初戦で堂々の1着!
電光掲示板に「3-1」の数字が躍った瞬間、福岡競艇場は震えるようなどよめきに包まれた!
ピットに戻った健太を、霧島麗華が腕を組んで迎える。その表情は、勝利への賞賛よりも、険しい疑念に満ちていた。
「……やるじゃない、佐伯さん。でも、さっきのステージ上でのアナウンサーとの『秘密の会話』、私の女の直感センサーで全部お見通しよ」
「……霧島さん、それは重大なプライバシー侵害、あるいは情報漏洩ですよ」
「うるさいわね。彼女、あなたに何を吹き込んだの? 『東雲』の名前が出たみたいだけど」
健太は苦笑しながら、ヘルメットを脱いで胸ポケットから眼鏡を取り出して掛け直した。宿舎でスマホを受け取り、ペットホテルで元気にしているスエの写真を確認する。
SGという名の巨大な本決算は、まだ始まったばかりだ。
しかし、健太の脳内では、レースの展開以上に、古閑が告げた「東雲グループの残党」という不穏な数字が、未払いの負債のように重くのしかかっていた。
「……スエ。俺たちの『残業』は、水面の上だけじゃ済みそうにないな」
福岡の空を、不気味な黒い雲が覆い始めていた。




