サウナの修羅場・SGへの黒い爪痕
第30話 サウナの修羅場・SGへの黒い爪痕
二〇四一年、真夏。
サウナの熱気で火照った体を、ロビーの冷風が心地よく撫でる。だが、佐伯健太の背筋を走ったのは、心地よい涼しさではなく、氷のような寒気だった。
古閑まきことの合流地点へ向かおうとする健太の前に、運悪く(あるいは計算通りに)、岩盤浴帰りの霧島麗華が立ちはだかったのだ。
「……あら佐伯さん。こんなところで奇遇ね。随分と血色が良くて結構だけど」
麗華は湯上がりの上気した肌を隠しもせず、冷たい視線で健太を射抜いた。
「……えらく急いでいるみたいね。どこかの『泥棒猫』と、帳簿外の密会でも企んでいるのかしら?」
麗華の視線が、ロビーの隅で不自然にスポーツ新聞を広げている変装姿の古閑まきこを捉えようとした、その瞬間だった。
「フガガガッ!!」
健太の足元から、黄金色の弾丸――スエが麗華の膝に向かってロケットスタートを切った!
「ちょっと!? なに、スエちゃん!? 急にどうしたの……ひゃっ、やめて、くすぐったい!!」
スエは、健太が密かに送った「特命サイン(指先での微かな摩擦音)」を完璧に理解していた。麗華の顔面に狙いを定め、情熱的かつ執拗な「ペロペロ攻撃」を開始する。麗華は必死に身をよじるが、スエの規格外の親愛(陽動)に視界を完全に奪われてしまった。
「あはは! もう、わかったから! 佐伯さん、ちょっとスエちゃんを止めて……って、あれ? いない!?」
麗華がスエの猛攻をかいくぐって前を見たときには、既に健太の姿は、熟練の隠密のようにかき消えていた。
「……お待たせしました。古閑さん。……『秘書』が優秀なものでね」
薄暗い自販機の陰。健太は息一つ乱さず、古閑まきこの前に音もなく現れた。
「さすがですね、佐伯さん。あの女王様をあんな方法で……。はい、これが東雲グループの核心部から抽出した内部資料です」
古閑が手渡したのは、一つの無機質なUSBメモリだった。
「彼らは江戸川のレースを隠れ蓑にして、機体の違法スラスト制御回路を海外の軍事企業へ流そうとしています。次のSG(最高峰レース)が、その最終取引、つまり『出荷の日』になるはずです」
「……なるほど。単なる着服や八百長ではなく、戦略技術のマネーロンダリングというわけですか。……これは一経理マンとしても、特命としても、これ以上の『繰越』は見過ごせませんね」
健太は資料を懐の奥深くに収めると、胸ポケットから取り出した眼鏡を掛け直し、瞳を冷徹な「監査官」のそれに変えて周囲の気配を探った。
一方、ロビーの中央では。
「……ふぅ。……スエちゃん、あなた今日、えらく積極的ね……。おやつ、そんなに欲しかったの?」
ようやく解放された麗華が、乱れた髪を整えながら息を切らしていた。スエは「任務完了」と言わんばかりに、満足げに鼻を鳴らして健太の消えた方向へトコトコと歩き出す。
「……待ちなさい、スエちゃん。……あの男、何を隠しているの?」
麗華の直感が告げていた。今のスエの動きは、単なるじゃれつきではない。主人の逃走経路を確保するための「プロの仕事」だ。
麗華はスエの後を追って、ロビーの奥へと歩を進めた。
そして、その視線の先――。健太が古閑まきこと、頭を寄せて「親密そうに」囁き合っている場面に遭遇してしまった!
「……やっぱり、不適切な計上(浮気)をしていたのね……!!」
麗華の背後から、怒りに燃える圧倒的な殺気とオーラが立ち上がる! その殺気は、江戸川の濁流を蒸発させるほどの熱量を帯びていた。
特命係長・佐伯健太。東雲グループの巨大な陰謀を暴く前に、東京支部の女王による「全項目特別調査(修羅場)」が彼を襲おうとしていた。
「……スエ。お前、あとでササミ二倍だ。……ただし、俺がこの監査(修羅場)から生還できればの話だがな」
健太は額の冷汗を拭いながら、誇らしげに尻尾を振るスエの頭を撫でた。
江戸川の激闘さえも前座に過ぎない。
佐伯健太の人生最大にして最凶の「場外乱闘」が、今、サウナのロビーで幕を開ける。




