極楽の決算・整うおじさんとパグ
第29話 極楽の決算・整うおじさんとパグ
二〇四一年、真夏の東京。
古閑まきこによる深夜の「電撃訪問」という、帳簿外のイレギュラーをスエの絶妙な(物理的)妨害でなんとか乗り切った翌日。佐伯健太は、溜まりに溜まった肉体の疲労と、脳内に澱のように沈殿した雑念を洗い流すため、馴染みのサウナ施設へと向かっていた。
そこは、からくりレーサーたちも人目を忍んで通う、知る人ぞ知る名店。併設された「ドッグ専用スパ」では、スエもまた一丁前にVIP待遇を受けていた。
「……いいか、スエ。サウナは人生の縮図だ。高熱という『逆境』に耐え、水風呂という『特別損失』で身を締め、最後に外気浴で『整う』。これで明日からの帳簿も、一円の狂いもない真っ白な状態に戻るんだ」
「フゴー」
スエは専用の温水プールで、黄色いアヒルのおもちゃを鼻先でつつきながら、極楽浄土の住人のような顔で浮いていた。主人のストイックな説法など、今の彼には心地よいBGMに過ぎない。
健太がサウナ室の重い木製扉を開けると、そこには先客がいた。
最上段、最も熱気が滞留する場所で、彫刻のように微動だにせず座る男。
「……ほう、佐伯さんじゃないか。江戸川の後は、ここで精神の決算ですか」
群馬支部のペラ叩き職人、神崎裕次郎だ。
百三度を超える灼熱の室内。二人の筋肉質な男が、一言も発さず、ただ噴き出す汗とともに己と向き合う。からくりレーサーにとって、サウナは単なる減量手段ではない。酸欠と高熱という極限状態で、意識とスラストの同期精度を機体ではなく肉体に「定着」させるための、一種の修練場でもあった。
「神崎さん……。群馬の山おろしに比べれば、この程度の熱気、経理部の暖房設定ミスのようなものですよ」
「ハッ、相変わらず減らず口を。……だが、あんたの体、やはり特注品だな。ただの事務職が維持できるラインじゃない。……数々の不渡り(修羅場)を力ずくで書き換えてきた、『戦士の肉体』だ」
サウナストーンに落ちる水滴が弾ける音だけが響く。二人の間に、支部の壁を超えた、プロの職人同士にしか理解し得ない奇妙な連帯感が生まれる。
「……失礼。先に『水風呂』という名のキャッシュフロー改善、計上してきます」
サウナ、そしてシングル(水温十度未満)の水風呂を終え、健太は露天スペースのリクライニングチェアに深く身を預けた。
血管が拡張し、全身の拍動が宇宙の波長と同期していく。思考が真っ白になり、脳内の不要なキャッシュがすべて消去される感覚。
「……整った……」
その時、横から温かく、少し毛羽立った感触がした。
「フゴッ」
スパを終え、フカフカのタオルで「パグ巻き」にされたスエが、スタッフに連れられて健太の隣の椅子にやってきたのだ。
西日に染まり始めた黄金色の空が、健太の鍛え抜かれた肉体と、スエの愛らしい丸いフォルムを平等に照らし出す。都会の喧騒、利権、裏切り――それらすべての理から解き放たれた、おじさんとパグだけの、絶対的な静寂。
「……このまま、永久に『非課税』の時間に浸っていたいもんだな、スエ」
健太がスエの湿った頭を撫でると、スエは満足そうに目を細め、小さくいびきをかき始めた。
だが、その平穏を切り裂くように、健太のスマートフォンのバイブレーションがベンチを震わせた。
画面に表示されたのは、昨夜の「急襲者」、古閑まきこ。
『佐伯さん。昨夜は失礼しました。……ですが、事態は一刻を争います。東雲グループの件で、どうしてもあなたに「特命」で調べてほしい、帳簿に載らない重大な事実があるんです。……今夜、そのサウナのロビーでお待ちしています』
「……フガッ?」
スエが片目を開け、健太の顔を覗き込む。
「……やれやれ。スエ、どうやら俺たちの『バカンス』は、早くも赤字に転落したようだ」
健太は胸ポケットから取り出した黒縁眼鏡を掛け直し、鋭い「特命係長」の目へと戻った。
サウナで研ぎ澄まされた超感覚が、江戸川の濁流よりもさらに深い、巨大な利権と闇の匂いを嗅ぎつけていた。
ロビーの向こう、古閑まきこが待つ「戦場」へ。
佐伯健太の休暇は終わり、再び「見えない弾丸」が飛び交う、特命の夜が幕を開ける。




