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からくり競艇〜サラリーマン、魂のフルスロットル〜  作者: 水前寺鯉太郎
プロ駆け出し編

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肉体決算・深夜の不意打ち

第28話 肉体決算・深夜の不意打ち

 二〇四一年、熱帯夜の東京。

 江戸川G1を制した熱狂は、スポーツ紙の紙面ではまだ燃え盛っていたが、当の本人である佐伯健太の自室は、ストイックな静寂に包まれていた。

「……九十八、九十九……百ッ!」

 深夜、マンションの一角。健太は上半身裸になり、自重でのプッシュアップ(腕立て伏せ)の最終セットを終えたところだった。

 床に滴る汗。部屋のLEDに照らされ、浮き上がる広背筋と、かつて「特命」時代に刻まれた数条の古い傷跡が、鈍い光を放っている。三十六歳。世間では「おじさん」と呼ばれる年齢だが、その肉体は無駄な脂肪という名の「不良在庫」を一切排除した、高精度の機械装置のようだった。

「……フゴッ? フゴー?」

 その目の前で、愛犬スエが首を右に四十五度、次に左に四十五度と傾げながら、不思議そうに主人のストイックな挙動を観察していた。

「どうした、スエ。……お前も資産価値を維持するか? スクワットは、どんな現場でも足腰の基本だぞ」

 健太は次に、スエの胴体を優しく、かつ正確なグリップで持ち上げた。

 オーバーヘッド・スクワット。

「フゴガッ!?」

 突然の浮遊感に驚き、短い足をバタつかせるスエ。だが、健太の太い腕が放つ圧倒的な安定感に触れるうち、「これもまた特命の試練か……」と言わんばかりに、次第に悟りを開いたような慈悲深い表情で遠くを見つめ始めた。

「……よし、仕上げだ。広背筋の『期末調整』といこうか」

 次は懸垂(チンニング)。ドア枠に設置したタクティカル・バーに指をかけ、己の体重を極限まで引き上げる。広背筋が収縮し、肩甲骨が天使の羽のように波打つ。

 そのリズムに合わせ、足元でスエが「ワンッ! ワンッ!」と短く吠える。まるで、特命係の鬼教官が秒数をカウントしているかのようだ。

「……はぁ、はぁ。……よし。今日の『肉体決算』は、すべて黒字で終了だ」

 健太がタオルで汗を拭い、胸ポケットから取り出した黒縁眼鏡を掛け直すと、鋭い殺気は消え、いつもの「穏やかな経理マン」の顔に戻る。スエは「やっと終わったか」と、健太のプロテインシェイカーの匂いを嗅ぎ、縁に垂れた一滴をペロリと舐めて「監査完了」の印を床に残した。

 その時だった。静まり返った部屋に、無機質なインターホンの音が鳴り響いた。

 時刻は午後十一時を回っている。新聞の勧誘にしては遅すぎ、火野や麗華なら事前に連絡があるはずだ。

 健太が不審に思い、壁のモニターを覗き込む。

 そこには、深く被った帽子とマスクで顔を隠してはいるが、レンズ越しにも伝わる圧倒的なオーラを放つ女性が立っていた。

『……夜分遅くにすみません、佐伯さん。古閑(こが)まきこです』

 スピーカーから流れる、聞き慣れた透明感のある声。

『昨夜のお礼を、どうしても……どうしても今すぐ、直接お伝えしたくて。ご迷惑なのは重々承知なのですが』

 スエが「フガッ!」と短く、しかし警戒を含んだ声で吠える。

 昨夜、路地裏で助けた「勝利の女神」。テレビ画面の向こう側の住人が、今、自分の生活圏という名の「帳簿内」へ土足で踏み込もうとしている。

 健太は自分の姿を鏡で見た。上半身裸。血管が浮き出た剥き出しの筋肉。

 プロのレーサーとして、そして「元・始末屋」として、これ以上ないほど無防備かつ、生々しい姿だ。

「……スエ。これは、予定されていた監査項目にはないな」

 健太は苦笑し、椅子に掛けていた地味なTシャツを慌てて手に取った。

 ドアの向こうには、競艇界の女王・霧島麗華さえもまだ知らない、佐伯健太のプライベート・スペースへ強引に割り込もうとする「人気女子アナ」という名の、制御不能なリスクが待ち構えている。

「……公私混同。……麗華さんに知られたら、それこそ『特別損失』じゃ済まされないぞ」

 健太がドアノブに手をかけた瞬間、スエは「フンッ」と鼻を鳴らし、主人の足元でこれからの「場外乱闘」を観戦する構えを見せた。

 江戸川の濁流よりも読みづらい、女たちの戦い。

 佐伯健太の「非公式な夜」が、今、静かに幕を開けようとしていた。

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