闇の始末屋・葛西の街頭監査
第27話 闇の始末屋・葛西の街頭監査
二〇四一年、七月。江戸川G1の祝勝会と退走手続きがすべて終わり、熱狂の余韻が残る葛西の街。
管理解除された手荷物を受け取り、指定ペットホテルから愛犬・スエを引き取った佐伯健太は、酔い冷ましを兼ねて夜の路地裏を歩いていた。足元では、特上のササミを堪能したスエが「フゴー、フゴー」と満足げに鼻を鳴らしている。
だが、突如としてスエが足を止めた。喉の奥から、地響きのような低い唸り声が漏れる。
「……スエ、どうした。未払いの残業代でも見つけたか」
視線の先、街灯の切れたゴミ置き場の暗がりに、数人の男たちが一人の女性を囲んでいた。
「いいじゃねえか、古閑さんよ。テレビじゃ見せない『裏の顔』、俺たちにだけ特別に開示してくれよ」
「やめて……! 離して!」
悲鳴。そこにいたのは、競馬や競艇の中継で「勝利の女神」と称されるトップアナウンサー、古閑まきこだった。仕事帰りだろうか、華やかな衣装は乱れ、その美貌は恐怖に凍りついている。
「……おい。深夜の強制連行は、明らかな労働基準法違反だぞ。それに、その強引な勧誘……コンプライアンス(法令遵守)の欠片も感じられないな」
健太が静かに、しかし心臓を掴むような冷徹な声とともに闇から現れた。
彼は胸ポケットから黒縁眼鏡を外し、丁寧にポケットへしまう。その瞬間、穏やかな「おじさんレーサー」の輪郭は霧散し、企業の闇を葬ってきた「特命係長」の冷酷な殺気が路地裏を支配した。
「あぁ? なんだお前、ただの酔っ払いか。痛い目見たくなきゃ失せろよ!」
一人の男がナイフを抜き、健太の喉元を狙って突進する!
だが、健太は瞬き一つしない。
刃先が届く直前、健太の右手が蛇のように伸び、男の手首を掴んだ! そのまま、相手の体重移動を利用して関節を冷徹に極める!
「ぐわぁぁっ!?」
「……入力ミスだ。攻撃のベクトルが甘すぎる。これでは修正を食らって当然だろう」
健太の体術は、力に頼らない。相手の支点を奪い、最小限の挙動で無力化する実戦格闘術。特命時代、数々の不祥事の「現場」を単身で鎮めてきた、汚れ仕事の技術だ!
二人目が背後から飛びかかるが、健太は振り向きざまに、重い一撃を男の鳩尾に沈めた! 肺から空気が搾り出される音が途切れる。
「スエ、右だ。足止めをしろ!」
「ワンッ!」
スエが最後の一人の足首に鋭く噛みつき、注意を逸らす! そのコンマ数秒の隙に、健太は流れるような動作で最後の一人を壁に叩きつけ、頸動脈を圧迫して一瞬で意識を奪った!
わずか三十秒の「不適切な個体の排除」。
「……大丈夫ですか、古閑さん。怪我の有無を報告してください」
健太は倒れた男たちから視線を外し、古閑まきこに手を差し伸べた。
彼女は震える手で健太の手を握り、その鋭い、けれど深い優しさを湛えた瞳を見つめた。
「あ……ありがとうございます。助かりました……。あなた、もしかして、今日の江戸川G1で優勝した……佐伯さん?」
「……ただの通りすがりのサラリーマンですよ。今は、少しボートに乗っているだけのね」
健太は落ちていた彼女のバッグを拾い上げ、埃を丁寧に払って手渡した。
遠くから、騒ぎを聞きつけた警察のサイレンが近づいてくる。
「……私の名前を出すと、明日の番組の台本が書き換わってしまう。それはプロの仕事として美しくない。……ここは、私が処理しておきます。あなたは裏口からタクシーを」
健太はそう言い残すと、スエを抱き上げ、再び闇の中へと溶けていった。
古閑まきこは、バッグを抱きしめたまま、その広い背中をいつまでも、熱を帯びた瞳で見送っていた。
翌朝。健太が自宅でスエと分け合ったササミを食べさせていると、テレビから古閑まきこが担当するニュース番組が流れてきた。
そこには、昨夜の恐怖など微塵も感じさせないプロの笑顔で、江戸川G1の結果を伝える彼女の姿があった。
『……そして、今回の優勝者、佐伯健太選手。彼はまさに、水上のヒーローであるだけでなく、私たちの日常を陰で支える騎士のような方なのかもしれません』
ニュースの締めくくり、カメラを直視した彼女が、ほんの一瞬だけ、画面越しの健太に向かって意味深なウインクを投げかけた。
「……フゴッ?」
「……スエ、気のせいだ。……俺たちは地味に、目立たず生きるのが一番の『内部留保』だからな」
健太は苦笑してチャンネルを変えた。だが、彼が助けたのは、ただのアナウンサーではなかった。
この救出劇を境に、古閑まきこは「佐伯健太」という男の正体を暴くことに異常なまでの情熱を注ぎ始める。
それが、東京支部の女王・霧島麗華との間に、水上よりも激しい「女の戦い」の火種を撒くことになるとは、今の健太はまだ知らない。
佐伯健太の人生という名の帳簿に、制御不能な「多額の負債(愛憎)」が計上されようとしていた。




