最終決算・輝かしき黒字街道
第26話 最終決算・輝かしき黒字街道
二〇四一年、七月、夕刻。東京・江戸川競艇場。
関東地区選手権・決勝戦。カクテル光線に照らされた水面は、上げ潮と川の流れが不気味に均衡し、これから始まる「最終決算」を前に、死のような静寂を保っていた。
第一コース、白のカポックを纏った佐伯健太。第二コース、西貴斗。第三コース、霧島麗華。第四コース、中島和樹。
からくり競艇界の至宝たちがスリットラインに並ぶ中、観客席の最上階――関係者以外立ち入り禁止の特別ブースでは、東雲グループの常務が冷酷な笑みを浮かべていた。
「佐伯健太……。ドブネズミのようなお前に、相応しい引導を渡してやる」
常務の手元には、一台の不気味なコンソールがあった。
「江戸川の『魔の第一マーク』水面下に、特製の超音波振動機を沈めさせた。お前のハヤブサがターンに入り、重力加速度が最大に達した瞬間、機体の分子構造を破壊する。粉々に砕け散り、濁流の底で一生『帳簿』でもつけていろ」
だが、東雲常務は知らなかった。
健太がレース場に入る前検日、ペットホテルに愛犬・スエを預ける際、すでに「特命の布石」を打っていたことを。
健太が「特命係長」時代に愛用していた特殊な消臭香料の匂い。スエが見せた鋭い眼光を合図に、健太が事前に手配していた江戸川署の刑事たちと「特命監査チーム」が、すでに裏で動いていたのだ。
ファンファーレが鳴り響く直前、特別ブースのドアが強烈な音を立てて蹴破られた!
「東雲常務! 贈賄、器物損壊未遂、および競艇法違反の容疑で逮捕する!」
「な、なんだ貴様らは!? 離せ! スイッチを――」
常務が暴れた拍子にコンソールが床に転がり落ち、ショートして爆ぜた。
「……スタート!!」
全艇が一斉にスリットを駆け抜ける!
白のカポックの健太のハヤブサが、コンマゼロ三の弾丸スタートでトップに躍り出た!
だが、健太の「特命センサー」が脳内で警報を鳴らしていた。第一マークの波面が、超音波の残響によって不自然に細かく震えている。
(……何かあるな。物理法則を無視した『バグ』が潜んでいる!)
第一マーク。超音波の干渉波が一瞬だけ揺らいだその「コンマ一秒」を、健太は見逃さなかった!
「……今だ、ハヤブサ! この不条理を突き抜けろ!!」
健太は麗華のラインをあえて風除け(壁)に使い、江戸川の濁流を切り裂く『特命・超音波殺し旋回』を敢行した! 超音波の微振動を、からくり機関の脈動と同期させて相殺し、逆に機体の安定へと利用する即興の物理演算!
中島と西、二人の王者が一瞬だけ見失うほどの鋭角なターンで、白のカポックのハヤブサが漆黒の水面を鮮やかに滑走した!
「1着、1号艇、佐伯健太!!」
万雷の拍手と、耳を劈くような大歓声!
健太はハヤブサと共に、堂々のトップでゴール板を駆け抜けた!
G1初制覇。三十六歳にして、日本のトップレーサーの仲間入りを果たした瞬間だった!
表彰式、勝利者インタビュー、そしてすべての競技手続きを終え、管理解除された手荷物からスマホを受け取ったのは、街に静かな夜が訪れた頃だった。
健太は競艇場の外へ出て、東京の夜風を胸いっぱいに吸い込み、ペットホテルへ電話を掛けた。
「……あ、佐伯です。勝ちました。……今から迎えに行きます」
電話の向こうから、「フゴー! フゴーッ!」と、まるでレースの内容をすべて知っていたかのように大興奮したスエの鼻鳴らしが聞こえた。
そこへ、私服に着替えた霧島麗華が、どこか晴れやかな顔で歩み寄ってきた。
「……見事だったわ、佐伯さん。あの状況で差し切ったのは、紛れもなくあなたの実力よ。……おめでとう。一円の狂いもない、完璧な勝利だったわ」
「……ありがとう、霧島さん。……さて、スエ。今日は特上のササミじゃない。……銀座の最高級和牛で『打ち上げ』だ。もちろん、経費じゃなく自腹(優勝賞金)だぞ」
受話器の向こうでスエが「フゴー!!」と歓喜の咆哮を上げた。
健太は胸ポケットから取り出した黒縁眼鏡を静かに掛け直し、麗華に不敵な笑みを向ける。
しがないサラリーマンから、闇を葬る特命係長、そして水上の頂点たるG1覇者へ。
佐伯健太の「第二の人生の決算書」は今、右肩上がりの眩しい黒字街道を、どこまでも走り始めた。




