『特命レーサー・深夜の監査』
第25話 特命レーサー・深夜の監査
二〇四一年、七月。江戸川のピットが寝静まった午前二時。
カクテル光線は消え、濁った川面が月光を鈍く反射している。佐伯健太は、昼間の激闘による疲労を感じさせるどころか、獣のような鋭い眼光で愛機『ハヤブサ』の影に溶け込んでいた。
脳裏にあったのは、前検日にペットホテルでスエが見せたあの鋭い警戒の眼光だ。不純物の混じった特殊なオイルの気配。
(……来たな。あの不純物が混じったオイルの匂いだ)
暗闇から、整備士の制服を着た見慣れぬ男が音もなく現れた。男が慣れた手つきでハヤブサの動力部に触れようとした瞬間、健太の体が「物理法則」を無視した速度で動いた!
「……深夜のサービス残業にしては、手が込みすぎているな。労働基準法、あるいは刑法に抵触するレベルだぞ」
「なっ、佐伯!? なぜここに……」
男が狼狽し、懐からプロ仕様のタクティカルナイフを抜こうとした。だが、健太の指先がそれより速く男の手首を制圧する!
健太には、かつて大手企業の「特命係長」として、表沙汰にできない数々の不祥事や「物理的なトラブル」をもみ消してきた過去があった。経理の数字を追う一方で、彼は企業の癌を摘出する始末屋でもあったのだ。
健太は男の手首を掴むと、無慈悲な角度で捻り上げた!
「……ぐあああッ!!」
「その細工、誰に発注された。お前の『背任行為』、今すぐこの場で内部監査してやる」
胸ポケットに眼鏡を収め、レーシングスーツの襟を正した健太の姿には、もはや冴えないおじさんの面影はない。そこにあるのは、獲物の急所を的確に突く「プロの始末屋」の冷徹なオーラだった。
「ひ、東雲グループの……常務だ……! お前が昔、経理で暴いた横領の……復讐を……!」
「……やはりな。過去の清算書に、まだ未払いの項目が残っていたか」
健太が男を突き放すと、暗闇から中島和樹、霧島麗華、そして薮本明子が姿を現した。事前に健太が根回しをしていた「共同監査チーム」だ。
「……佐伯。あんた、ただの経理マンじゃねえな。その身のこなし、職人のそれですらねえ。……地獄をくぐってきた『掃除屋』の動きだ」
中島が呆れたように、しかし深い敬意を込めて呟く。
「……昔、ちょっと『特命』で泥を被っていた時期がありまして。……今ではただの趣味ですよ」
健太は胸ポケットから黒縁眼鏡を取り出して掛け直し、いつもの穏やかな「おじさん」の顔に戻った。
深夜の襲撃事件は表向き伏せられたが、東雲グループの刺客はまだピットに潜んでいる可能性があった。
翌日、準優勝戦。
白のカポックを纏った健太は、第一コースから出走。二コースの井上忠興(兵庫)と、四コースの神崎裕次郎(群馬)という、一筋縄ではいかないベテラン勢と激突する。
「佐伯さん。レースに情は禁物ですよ。……あなたのその甘い『おじさん成分』、私がすべて吸い取ってあげましょう」
井上が、スタートからじわじわと健太を追い詰める。先行させず、しかし離さず、相手の精神を削りながら最後に差す「足を溜める」戦法。江戸川の荒波と相まって、健太のハヤブサに目に見えない圧力がかかる。
だが、健太の口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
「……井上くん。俺は昔から、粘り強い奴の『帳簿の綻び』を見つけるのが得意でね。……お前の走り、少しばかりコンプライアンス(基本)を無視しすぎだ」
健太は昨夜の襲撃で得た怒りと冷徹な計算を、ハヤブサの出力へと完璧に変換。特命係長時代に学んだ「相手の意識の外側から一瞬で消えるフットワーク」を、ボートの挙動で再現しようとしていた!
第一マーク。
健太はあえて井上に「差させる隙」を見せた。井上が勝利を確信し、溜めていたスラストを一気に解放して内側へ潜り込もうとしたその瞬間――。
「……決済完了だ」
健太はスラストを逆噴射させ、ハヤブサの機首を物理的にあり得ない角度で内側へ捻り込んだ!
井上が溜めていた推進力は行き場を失って空転し、巨大な引き波へと消えていく。そのわずかな隙間、針の穴を通すようなラインを、健太は「特命・隠密旋回」で鮮やかに貫いた!
光学的にも音響的にも、一瞬だけ健太の姿が消えたかのような錯覚。
観客席がどよめきに包まれる中、白のカポックのハヤブサは独走態勢に入った!
ゴールラインを駆け抜ける健太。その背中には、もはや「新人」の面影はない。
企業の闇も、水上の濁流も、すべてを飲み込んで進む「特命レーサー」の風格が備わっていた。
「……お見事。……でも、夜の『特命』活動は、私にだけにしておいてほしいものね」
ピットに戻った健太を、霧島麗華が少し頬を赤らめながら迎えた。その瞳には、彼が隠していた「強さ」に対する確かな憧憬が混じっている。
「……霧島さん。それは、公私混同というやつですよ。……スエに怒られます」
健太は宿舎でスマホを受け取り、ペットホテルのカメラ映像で元気なスエの姿を確認して不敵に笑った。
だが、安らぎは長くは続かない。
いよいよ迎える優勝戦。そこには、東雲グループが送り込む「最後の刺客」が、レース場全体を巻き込む巨大な罠を仕掛けていた。
健太の過去、現在、そして未来。そのすべてを清算するための「最終決算」が、江戸川の濁流の中で幕を上げようとしていた。




