博多の放課後・白い追跡者(ペキニーズ)
二〇四一年八月。福岡競艇場に隣接する、潮の香りが色濃い海沿いの公園。
SG開催中のピリついた空気、そしてマブイ出力が飽和するピットの喧騒から離れ、佐伯健太は特例の「一時間外出」を利用してスエと歩いていた。
「……フゴー、フゴー」
スエは博多の力強い海風を鼻先に受け、実にご機嫌だ。健太もこの時ばかりは、背負い込んだ「特命」の重圧を意識の外へと追いやり、ただの飼い主としての穏やかな横顔を見せていた。
「いいかスエ、一時間だ。この『特別休暇』という名の資産を、一秒も無駄にせず有効に使わないとな。宿舎に戻れば、また西や中島さんの猛烈なマブイ攻勢という名の超過勤務が待ってるんだからな」
健太が防水仕様の時計を確認し、そろそろ「戦場」へ戻ろうとした、その時だった。
スエが急に足を止め、短い尻尾をピコピコと規則正しく振って、背後を振り返った。
「……フガッ?」
健太が視線を向けると、そこには一匹の真っ白なペキニーズがいた。
その犬は、スエの数歩後ろを、まるで気配を消したプロの尾行者のようにトコトコとついてきていたのだ。
気高く、どこか優雅な足取り。しかし、その黒真珠のような瞳には、普通の愛玩犬とは思えない鋭い「知性」と、かすかな「マブイの残光」が宿っていた。
「……野良犬じゃないな。この完璧なトリミング、相当な管理をかけられているぞ」
健太が足を止めると、ペキニーズもまたピタリと止まる。
スエが「遊ぶか?」と言わんばかりに親愛の情を見せて近づこうとすると、ペキニーズは小さく首をかしげ、口に咥えていた**「小さな真鍮製のカプセル」**を、健太の足元にポトリと落とした。
「……なんだ、これは。落とし物か?」
健太がそれを拾い上げようとした瞬間、背後の潮騒に混じって、冷ややかな、しかし凛とした声が響いた。
「……それは、私のハクが選んだ『あなたへの挑戦状』よ。佐伯健太選手」
振り返ると、そこには福岡支部が誇る期待の若手、そして今回のSGでダークホースと目される女性レーサー、**「松風みなみ」**が立っていた。
彼女の足元に、ペキニーズのハクは静かに戻り、まるでお辞儀をするような優雅な所作で健太を見つめた。
「ハクは、レーサーのマブイの質を見抜く。……あなたのスエちゃん、なかなか骨のあるマブイ(魂)をしてるわね。でも、福岡のうねりを真に乗りこなすのは、地元よ」
松風はそれだけ言い残すと、白い影を連れて、那珂川の夕闇へと消えていった。
外出時間の終了。健太はスエと共に宿舎の個室に戻った。
スエは「新しい友達ができた」と満足げに、支給されたササミを力強く噛んでいる。
健太は、ハクが落としたカプセルを「特命係長」の眼差しで慎重に開封した。中には最新型のホログラム・チップが一枚、静かに収まっていた。
ポータブル端末に接続し、暗号化されたデータを展開する。
「……これは、明日の予選第十レースの……『那珂川河口における、秒単位の潮位変動予測データ』か?」
健太の眉間に深い皺が寄る。東雲グループの残党が場外で暗躍する中、なぜ地元のライバルである松風みなみが、これほどの機密情報を自分に渡したのか。
これは「罠」という名の架空請求か。あるいは、からくり競艇の腐敗を内側から浄化しようとする、孤高の意志による「内部告発」なのか。
「……スエ。どうやらあの白いペキニーズ、お前を単なる遊び相手だとは思ってないみたいだぞ。お前も、向こうの『マブイ』を感じ取ったのか?」
「フゴッ」
スエはササミを飲み込み、主人の瞳を真っ直ぐに見返した。
福岡SG、二日目。
健太の脳内には、チップから得た「不規則な潮位」の計算式が完璧にインプットされていた。しかし、松風みなみの意図だけは、未だに「使途不明金」として処理しきれずにいる。
ピットに向かう通路。健太の横を、松風とハクが通り過ぎる。
「……データの使い道は、あなた次第よ。おじさん」
松風の低い囁き。
健太とスエの前に、那珂川の濁流よりも複雑な「女たちの意地」と、白いペキニーズが導く「水上の迷宮」が、圧倒的な質量を持って立ちはだかろうとしていた。
「……よし、スエ。貸し借りは作らない主義だ。このデータ、レースでキッチリ『利益』に変えてやるぞ」
「フゴーッ!!」
福岡の空に、予選二日目のファンファーレが鳴り響いた。




