『女王の休日・帳簿外の素顔』
福井からの帰路。東海道新幹線の下り。
佐伯健太とスエ、そして霧島麗華は、偶然にも同じ車両の指定席に乗り合わせていた。麗華は「たまたま座席が隣の列だっただけよ」と不機嫌そうにサングラスをかけ直したが、最高級の駅弁を三つも抱えていた健太は、彼女の「偶然」をあえて追求しないことに決めていた。
事件が起きたのは、新幹線が静岡を過ぎ、富士山の裾野が車窓を横切り始めた頃だ。
「……フガッ、フガフガ!」
健太が少しばかり眠りに落ちた隙に、足元のケージにいたはずのスエが、持ち前の器用さでロックをこじ開け、通路へと脱走してしまったのだ。
「……おい、スエ! どこへ行った、この駄犬!」
健太は慌てて座席を立ち、車両の後方へと向かう。
グリーン車の手前、多目的スペースのシートが並ぶデッキ付近に差し掛かったとき、健太は信じられない光景を目にし、足を止めた。
「……嘘だろ」
そこには、高級ブランドのストールを毛布代わりにし、無防備に眠りこける霧島麗華の姿があった。そして、彼女の柔らかな膝の上には、ちゃっかりと顎を乗せてスヤスヤと眠るパグのスエの姿が。
「フゴー……フゴー……」
スエの図太いいびきと、麗華の静かな寝息が、静寂のなかで奇妙なハーモニーを奏でている。
第二章:帳簿外の休息
(……まいったな。これじゃ、物理的に回収できない)
健太はしばし立ち尽くした。
普段、ピットや水面で見せる「東京支部の女王」としての高慢な仮面は、今の彼女からは完全に剥がれ落ちている。少し開いた桜色の唇、睫毛の長い瞼。時折、夢の中でも一マークの旋回をシミュレーションしているのか、細い指先が微かにピクピクと動く。
「……霧島さん。冷房、結構効いていますよ」
健太は、自分が着ていた地味なグレーのジャケットを脱ぎ、そっと麗華の肩に掛けた。安物のポリエステルだが、体温だけはしっかりと保たれている。
その瞬間、麗華が「ん……」と微かな声を漏らし、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……え? ……佐伯、さん……?」
寝起きの潤んだ瞳が焦点を結ぶにつれ、麗華の白い頬がみるみるうちに紅蓮へと染まっていく。
自分の膝で爆睡するパグ。自分を覗き込む、オイルの匂いのする「おじさん」。そして、自分の肩を覆う、重くて地味なジャケット。
「な、ななな……何を見てるのよ、この変態新人!!」
「……失礼。スエの回収に来ただけです。……あと、そのジャケット、クリーニング代は請求しないでくださいね。俺の今月の予算、もうカツカツなんですから」
「当たり前でしょ! こんな……こんな、センスの欠片もない服、二秒だって着ていたくないわ!」
麗華は跳ねるように立ち上がり、スエを健太の腕に押し付けるように返した。
だが、彼女の手は、健太のジャケットをすぐには突き返さなかった。そこから伝わる、健太の熱。そして、一円の狂いもなく現場を守り続けてきた男特有の、微かなオイルの匂い。
「……ササミの、お返し。……これで貸し借りなしよ」
麗華はストールを顔の半分まで引き上げ、再び座席に深く座り直した。サングラスで隠しているが、耳の先まで赤くなっているのは健太の目をごまかせなかった。
「……フゴッ?」
健太の腕の中で、スエだけが「いい夢を見ていたのに」と不満げに鼻を鳴らした。
「……スエ。お前、いつか女王様に消されるぞ。……それか、俺が代わりに消されるか」
健太は苦笑しながら、自席へと戻った。
東京まであと三十分。窓の外を流れる夕暮れの富士山を眺めながら、健太はふと思った。
プロの世界、からくり機艇という修羅の世界に入って、失ったものばかりではない。
一円の狂いもない帳簿のような硬直した人生に、思わぬ「特別利益」が紛れ込んできたような。かつての暴走族総長でもなく、しがない経理課長でもない、一人の「男」として生きているという、奇妙な高揚感があった。
だが、その安らぎは、品川駅に着いた瞬間に、冷酷な金属音によって打ち砕かれた。
第四章:不正アクセスの痕跡
健太のスマートフォンが、これまでにない激しさで震えた。
送り主は、江戸川競艇場で前検の準備をしているはずの火野龍也からだった。
『オッサン、大変だ! 今すぐ江戸川のピットに来い! 61号機が……、誰かに細工された形跡がある。マブイ・コアの封印が破られてる!』
「……何だと?」
健太の目が、一瞬で「元総長」の、獲物を追い込む冷徹な鋭さに戻った。
ハヤブサのマブイ・コアは、健太の魂と同期する精密機器だ。そこに手を出したということは、単なる機体破壊(嫌がらせ)ではない。健太という存在そのものを「否定」しに来たという宣戦布告に他ならない。
「……監査を飛ばして、いきなり強制捜査か」
隣の列で不機嫌そうに歩く麗華も、健太の纏う空気の変貌を察知し、足を止めた。
江戸川でのG1・関東地区選手権。
水面下の戦いは、すでに「血を流す」段階に突入していた。




